『観光とけいざい』25周年記念連載小説

津田三津夫作

蛋汗こ5000万人の空手家に捧げる

空 手 ホ テ ル


 |  ライブラリー |

 「記者会見に出てくれないか」といわれたとき、順子は「いやだなァ」と思った。

 「どんなことを聞くのかしら」

 ロンドン警視庁のホリフィールド警部は左手で電話機のコードをいじりながら、

 「空手でたたき伏せたときの詳しい状況じゃないでしょうか」

 といった。

 「それなら、調書に全部書いてあります。それを見たらいいじゃありませんか」

 「いえ、あなたから直接聞きたい。それに空手でやっつけたとき、あなたはどう考えていたか、どう思っていたかなどでしょう」

 「大勢の記者でしょう。初めて会う方にあれこれ聞かれるのはいやだわ。不安よ」

 確かに順子の言うとおり、記者達は何を言い出すか分からない。「不安だ」という彼女の気持ちはよくわかる。

 だが、警部はなんとか順子を記者会見に出したかった。警視庁で取材する記者たちが共同会見を強く要求しているのである。

 「じゃあ、日本大使館にも同席するよう頼みましょうか。彼らは慣れているから貴女に有益な助言をしてくれると思いますよ」

 順子はしばらく考えてから、

 「私の空手の先生が明日、日本から来ます。先生も出席できるならOKです」

 こうして順子の会見が決まった。

 ここはロンドン警視庁の五階。

 普段はミーティングや行事の際に使われるホールだが、今日は臨時の記者会見場に当てられ一般紙、タブロイド紙、週刊紙の記者、ラジオのレポーター、テレビのクルー、カメラマン達がざっと六十人集まった。

 ステージの中央にテーブル、その横に背の高い警視、身長一五五センチ、体重五〇キロの小柄な順子、日本から来た順子の空手の先生・神山、日本大使館のずんぐり太った佐藤書記官が並ぶ。

 背後の黒板には大きな極東の地図、地球儀が置いてある。

 会見が始まった。ホリフィールド警部が「ミス順子を紹介します。彼女は一昨日の夜、空手で二人組の男たちをたたき伏せ、警察に突きだした人です。ミス順子はロンドンに留学している日本人です。犯人はこれまでロンドンの住宅街で十六人の女性に乱暴した男達で、スコットランドヤードも逮捕に全力を挙げていました」と説明した。

 紹介された順子が立ち上がって礼をした。緊張している。フラッシュが光る。出席者紹介が終わると直ぐに女性記者が立ち上がった。

 「空手とはなんですか」

 虚をついた質問だった。

 順子は凶悪犯人が襲ったときの模様を聞くだろうと考えていたのでとまどった。

 「空手は心身を鍛練するものです」

 と型通りの返事をした。声がふるえている。すると女性記者は、

 「分かりやすくいうと空手は護身術? スポーツ? 武道? それとも健康体操?」

 順子は困った。

 (どう説明すればいいのだろうか)

 これまで空手について、つき詰めて考えたことはない。突きや蹴り、型の練習、まきわらを打つのが主なもので、ほとんどの空手家は理論を学んでいないだろう。うかつだった。唇をかんだ。

 空手とは「空手道」であり、日本人にとって自明のものだ。

 「……」

 沈黙がつづく。

 順子は立ったまま(そうだ。空手って いったい何だろう? 私はなぜ空手を練習しているのだろうか)と考えている。

 初めて持つ疑問だった。

 ホールいっぱい詰めかけた記者たちは順子の発言を待っている。

 その目が順子に集中していた。

 張りつめた空気の中で順子はまだ答えない。

 しびれを切らして先ほどの記者が再びいった。

 「質問を変えます。あなたにとって空手とは何ですか」

 詰問調である。

 順子は

 「私は六歳のころから空手を始めました。父が命じたからです。はじめ女性が空手を習うのは生意気で、野蛮だと思いました。しかしすぐにそんな考えは間違いだと気づきました。空手は老若男女の区別なく人間の心身を鍛錬します」

 一気にそういうと、上気した頬に手をやり、次いで黒髪をかきあげた。

 再びカメラのフラッシュが光り、シャッターを切る音が響いた。テレビのライトが順子に集中した。

 警部が説明したように、順子は一昨日、ショッピングに出かけた。帰りは夜の十時を過ぎていた。バスを降りて自宅に向かった。

 そのとき、事件が起こった。

 停留所からホームステイ先の自宅まで徒歩でわずか五分ほどの距離である。薄暗い。ところどころに街灯がついている。歩道の樹木が濃い影を落としている。左右に静かな住宅が広がっている。

 後ろの足音はバスを降りたときから分かっていたが気にしなかった。

 楽しいショッピングを思い出した。「先生は珍しいプレゼントにきっと、驚くわ」。くすっと笑った。

 足音は急に駆け足に変わり、順子の背後まで来ると二手に分かれた。

 二人の若い男である。

 両脇から順子を挟み込む形になった。

 右側の大きな男がなにかいって順子の腰に手を回した。初めて恐怖が走った。

 思わず、

 「何するのよッ」

 と叫んだ。

 同時に男の手首をつかむと関節をとって思いきりひねった。男は投げ飛ばされた。

 少林寺拳法の関節技である。

 自分から飛んでいかないと手首が折れる。

 今度は左側の男が順子の首に両手を回して絞めてきた。順子は身体を沈め、男の両手をつかみ、ぐっと上にあげた。バンザイの格好となった。男は両手を放した。

 羽交い締めにされたときに振りほどく初歩の術である。

 このとき、男のボディががら空きになった。脇腹を一撃した。

 前のめりになる男をけり上げ、右手をとって思いきりひねった。男は足元に崩れ落ちた。

 先ほどの男が起き上がって順子めがけて駆け寄ってきた。

 右手にナイフが光っている。順子は後ずさりしたが男の足が早かった。目の前に迫る。順子は思いきり股間を蹴った。

 男は悲鳴を上げて歩道に倒れ、苦痛で転げ回った後、悶絶した。練習していた空手が役立ったのである。たった数分の出来事だった。

 「ヘルプ!」

 順子ははじめて大声を上げて近くの住宅にかけ込んだ。

 直ぐにパトカーが来た。男たちは救急車で運ばれた。一人は気を失い、あとの一人は右肩を脱臼して激痛で悲鳴を上げ続けていた。

 順子は警察で「日本人学生で英国に留学している。二人に襲われ、危険を感じたので空手で防衛した。空手と少林寺拳法の初段である」と説明した。

 二人はスコットランドヤードが懸命の追跡をしている凶悪犯であった。

 警部が「明日また来てくれ」といった。そのとき居合わせたタブロイド紙の記者が話しを聞いて「写真をとらせてくれ」という。

 警部がうなづくので、カメラに向かった。

 記者は空手のポーズを頼む。順子は、両手のこぶしを固く握って腰に備え、次に左手をそのまま前に突き出して左にひねる。右手は腰に備えたままである。空手の基本の型であった。

 記者はこのポーズを二、三枚とった。そばでみている警官に「一緒に入ってくれ」といい、制服制帽を付けた警官が順子と並んだ。すると警官が空手を感心して見ている構図になった。

 翌日、警察に行くと、警官が「大変なことになった」とタブロイド新聞を広げた。そこには一面をぶっつぶして順子の写真が出ている。

 「日本人の美人空手家・暴行魔をたたき伏せる」

 「犯人はスコットランドヤードが追及中の凶悪犯人・二人組」

 紙面の三分の一もある大見出しとともに、空手のポーズをとった順子。その順子を見ている警官の写真が出ている。

 順子は大きな報道に驚いたが

 「なにが大変ですか」

 「大きくのっけたのはいいが、新聞、テレビ、ラジオ、週刊紙の記者がミス順子に会わせろと押しかけてきて警察は朝から大騒ぎだ」

 ざっとこんなことをいった。口でいうほど大変だとは思っていないようである。自分の写真が大きく載っているのでまんざらでもないらしい。

 「暴行魔ではなかったのかしら」

 「いや、そうではない。記者会見させろ、ミス順子を隠すなということらしいよ。なにしろ、凶悪犯人だからな」

 会見では二人をやっつけたときの模様を聞かれるはずだ、という。

 「どうしようかしら」

 迷いながらホリフィールド警部に会う。

 「英国にはお世話になっているから出るべきでしょうけど…」

 順子は英国に留学して良かったと思う。

 英語が大好きで中学、高校、大学を通して英語を勉強してきた。

 「自由に英語を話したい。英国に留学しよう。ホームステイがいい」

 そう決めてロンドンに来た。一年半前のことである。

 家族は順子一人で外国に行くのは危険だ。不安だ、と猛反対した。

 「乱暴者は空手でたたきのめしてやる」

 といったが納得しなかった。

 家族にとって「空手」とは趣味の一つであり、暴漢をやっつける術や「護身術」などではなかった。

 順子の先生である神山正興五段が「空手を知っているから大丈夫ですよ」といってくれたが「許可」しなかった。

 そこで中国の「少林寺拳法」を習った。道場に通い、一年半後、少林寺拳法初段の免許を得た。空手と少林寺と二つなら大丈夫だと家族は初めて留学を許した。

 ロンドンには英会話の学校がある。ヨーロッパ、中近東、アジア各国からの留学生に初歩の英会話を教えるのである。ここを卒業して正規の学校に転入する。

 順子も英会話の学校に通った。英語の単語、文法はよく知っている。聴き、話すことが不得手なだけだ。三ヶ月もすると上達し、学校に転入することができた。

 ホームステイは快適だった。ホストファミリーの父親は高校の数学の教師で、母親は家庭を守っていて順子の日常生活の先生だった。

 留学生活もあとわずかで、英国ともお別れである。

 その矢先の「犯人逮捕事件」である。

 順子は、準備の都合があり、記者会見は明後日にしてくれと頼んだ。

 警部は会見の日時を決めた。

 「明日、美人空手家・ミス順子の記者会見」と新聞が報道した。

 凶悪犯人を一人でたたきのめし、逮捕に導いた日本人女性とは一体どんな人か、空手とはどんな技でどんな訓練をしているのか。街中の話題となった。

 大使館も日本を知って貰おうと日本紹介のビデオを用意し、さらにパンフレットもたっぷり準備した。

 順子はアジアの地図と地球儀、空手衣、スタンディングまきわら、レンガ十個、厚さ二センチほどの板を二枚用意した。

 空手の先生・神山も東京から到着し、同席することになった。

 「すると、空手とは心身の鍛錬の道具ですか。護身術ではないのですか」

 さきほどの記者は鋭く聞く。

 「空手は沖縄で生まれました。沖縄は日本の一地域です」

 順子は続けた。

 「地図をご覧下さい。ここがシンガポールです。そのそばに香港があります」

 香港と聞いて記者団の関心はさらに高まった。香港の有名なカンフー映画を思い出したのである。

 「香港のやや向かいがマニラです。香港から北に行くと台北があります。さらに北に行くと上海、北京です。東京は東に進んだ所に位置しています。沖縄はちょうどこれらの真ん中にあります」

 次に順子は地球儀を回した。

 「ここが沖縄です。ぐるっと回すとハワイ、フロリダ、カリブ海、カナリア諸島、ほぼ地球の北緯三十度線上にリゾート地帯が広がっています。これらの地域は美しい珊瑚礁と、亜熱帯特有の温暖な気候に恵まれています」

 「で、どうなんです?」

 記者は先を急がせる。

 「この地方には温厚な人々が暮らし豊かな文化があります。ここで空手が生まれました」

 「空手も立派な沖縄の文化です」

 記者達は地図をのぞき込み、テレビカメラはいっせいに地球儀と地図を取り上げた。

 「もともと沖縄にあった空手と中国から渡来した拳法が融けあって空手が完成したのです」

 「いつ頃のことですか」

 「空手は約四百年前に誕生したといわれています」

 「というと護身術として発達したのですか」

 「いえ、心身の鍛錬です」

 「心身の鍛錬と護身術とどっちですか」

 「両方です」

 「スポーツではないですか」

 「スポーツではありません」

 「スポーツに似ていますが」

 「ボクシングのことをおっしゃっているのでしたら、違います。空手は試合をしません」

 「ルールはないのですか」

 「スポーツにはルールがあります。しかし空手にはありません」

 「なぜですか」

 「人間の身体は弱いものです。一方、空手はすごく強力です。空手で人間の身体に打撃を与えると致命傷になります。従って空手でゲームは出来ません。だからルールも作れないのです」

 「弱い部分とはどこですか」

 「人間の身体の柔らかいところです。ノド、股間、こめかみ、目、鼻、あご、腹、みぞおち、脇腹、頭の後ろ、すねなど全部で百十五カ所あります」

 「この百十五カ所は致命傷になるのですね」

 「そうです」

 他の記者が聞いた。

 「空手にはユニフォームはないのですか」

 「あります。空手衣です」

 「では空手衣を着て下さい」

 記者達は、映像の効果を考えて順子と順子の先生・神田の二人に空手衣を着るよう求めたのである。

 順子と神山が空手衣に着替えて現れると、ほおーという声が上がった。順子は真っ白の空手衣に黒帯をカチッと締めている。黒髪がくっきりと鮮やかである。先刻のスーツ姿とはうって変わって闘志と気迫が全身を包んでいる。神山も同様であった。 

 順子の頬はうすく紅をさしたように闘志で染まり、金色の細いネックレスがきらりと光った。軽やかなズックをはいている。りりしい。

 両足を肩幅ほどに開いて立つ。両手の拳は軽く握り、腰のあたりに据えている。背筋を伸ばし、目は前方を凝視している。空手の基本である自然体である。

 二人に比べると同じステージに並んで立つホリフィールド警部や日本大使館の佐藤書記官はかすんで見える。

 空手衣を着るとこんなに変わるのか。記者団は二人の姿に驚きの目を見張っている。

 「手に持っているのはなんですか」

 順子が答えた。

 「はちまき、ヘアバンドです」

 「なんと書いてあるのですか」

 「漢字です。私の方は『空手に先手なし』、先生のは『空手は正義なり』です」

 「空手に先手なし、ですか」

 「そうです。専守防衛と言うことです。空手は決して先に攻撃しません」

 「日本人は太平洋戦争で先に真珠湾を爆撃し、香港を攻撃した。どういうわけですか」

 順子は答えた。

 「日本軍が沖縄の空手を知らなかったのです。もし、空手を知っていたら攻撃はなかったでしょう」

 記者団はどっと笑った。むろん、戦争がそんな簡単なことでないのはみんな知っている。巧みなユーモアであった。

 年輩の記者が立った。

 「空手を覚えたのは父に命じられたからだといいましたね。なぜでしょう。その理由を聞いたことがありますか」

 「父は戦時中、軍隊に招集され、南アジアで戦ったそうです。戦争が終わると軍隊はさっさと撤退し父の部隊だけが山中に取り残されたそうです。部隊のなかに空手の先生がいて、その方がアメリカ兵に空手を教え、アメリカ兵はその謝礼に食糧を提供しました。おかげで部隊全員が飢え死にを免れ無事日本に帰ることができたそうです。だから空手は命の恩人だ。空手を練習しろといいました」

 「空手は命の恩人でしたか」

 「はい。今回の事件もそうです。空手のおかげで助かりました」

 「英国に留学したのは」

 「英語をもっと勉強したかったからです。自由に英語が話せたらどんなに素敵だろうと思っていました。それに英国のことをもっと知りたかったのです」

 「将来は何になりたいですか」

 「英語に関係した仕事です。例えば通訳とか、翻訳とか、英語を使った貿易ビジネスとか」

 「英国のことをどう思いますか」

 「素晴らしい国だと思います。いやな事件が起こりましたが、それはどこにでもあることです。でも、英国のみなさんは親切です。文化、伝統、高度な知識、どれをとっても私にはよい経験です」

 実際、順子は英国、とりわけロンドンの生活が気にいっていた。

 記者団と順子の間に温かい交流が生まれた。

 日本大使館の佐藤書記官はこの雰囲気を見て「この会見は成功だ」と感じた。早速立ち上がった。

 「最近の日本を紹介するビデオがあります。十分間ほどですからご覧ください」

 そういってビデオをかけた。

 美しい日本の風景から始まった。富士山、花、海岸、雪景色、農村風景、東京、大阪、京都などの大都会、自動車工場、ハイテク産業、造船、貿易、新幹線、成田など空港と航空輸送、暮らし、音楽、芸術、伝統工芸。日本文化のあらましを要領よくまとめている。

 「なるほど、日本はわかりました。ところで、そこにあるのはボクシングのサンドバッグのようですが、どう使うのですか」

 もっともな疑問である。順子が持ってきたのはボクシングのサンドバッグに似た「スタンディングまきわら」である。

 空手はこぶしの鍛錬のため「まきわら」を使う。「まきわら」は地中から高さ一メートル五十センチほどの柱を立て、先端に布きれをまいてある。これを両手でたたいてこぶしを鍛えパンチ力を強くする。だが柱を地中から立てられないときのために「スタンディングまきわら」が考案された。これだと庭先でも室内でも使える。

 順子はロンドンに来てからこの「スタンディングまきわら」を愛用してきた。

 説明すると「やってみてくれ」という声が飛んだ。

 順子は「まきわら」の前に立った。テレビカメラが一斉に順子に向かう。中には前に進み出て近くから撮影しようと試みるものもいた。場内が賑やかになった。

 順子は両手のこぶしをにぎり、まず「上段突き」をした。ついで「中段突き」「下段突き」終わると「上段蹴り」「中段蹴り」「下段蹴り」「前蹴り」「回し蹴り」と順々に披露した。突きや蹴りの度に「ばしッ」とにぶい音がしてバッグが揺れる。

 カシャ、カシャというカメラのシャッター音が響いた。

 「次に空手の型をご覧にいれます」

 そういうと、順子は神山をうながした。神山は道場での練習のように順子を立たせた。

 「礼」

 ふたりは正面に向かって礼をした。

 「ピンアン初段」

 リンとした神山の声が響いた。

 「イチ」「ニイ」「サン」「シイ」声に合わせて順子の身体が軽々と動き、力の入った両手が交互に前を突き、振り替って払う。前方を蹴り、回し蹴りをする。空手の型を次々に繰り出した。目は相手を射すくめるように鋭く光る。

 「エイッ」

 ひときわ高く叫んで終わった。

 拍手が鳴り響いた。神山は愛弟子の順子のさっそうとした姿に満足のまなざしを注いでいる。

 「次に試し割りを行います」

 順子は用意していたレンガを取り出した。

 「これはレンガです。さきほど、まきわらで鍛錬したので、こぶしは鉄のように固くなっています。素手でこのレンガを割ります。こぶしがどれほど強くなったかテストするわけです」

 順子は記者団にレンガを見せ、記者が確認した。

 レンガを二枚重ねた。その前に立って、しばし目を閉じ、呼吸を整えた。

 「やーッ」

 鋭い声が響きわたる。順子の右手が振り下ろされた。レンガは二枚とも音を立てて割れた。拍手が起こった。

 「次に板を割ります」

 順子は厚さ二センチはある五十センチ四方の板を持ち出した。固い板と確認させてから神山が持った。神山は両手でささげ持ち、目の前にかざした。右足は後ろに引き、左足に力をかけて前傾姿勢をとった。

 場内は静まり返った。張りつめた空気が満ちた。果たして板を割ることができるのか。記者団の興味は頂点に達した。

 「ヤアーッ」

 高い声がして順子の身体が宙に舞った。回し蹴りである。「バシッ」と乾いた音を立てて板が割れた。

 前にも増して大きな拍手が起こった。

 「質問を続けます。どうぞ」

 順子はようやくこの場の雰囲気になれてきた。記者団と気軽に話しが出来るようになった。

 記者が立って「ミス順子のこぶしをみせてくれ」といった。

 順子が笑って両手を差し出した。

 記者は身体をを近づけて両手を見た。その模様をすかさずテレビカメラが撮影する。

 「握ってくれ」

 カメラマンがいうので順子はこぶしを握った。このような仕草はテレビカメラの絶好のシャッターチャンスである。

 「先生のこぶしはどうか」

 質問が飛ぶと神山は前に進み出て両手をつきだした。

 神山の手は節くれだっている。握るとこんもり盛り上がったように見える。毎日、まきわらを突き、鍛錬しているから拳は石のように固い。

 「レンガや板を割るのだから、人間の身体だとひとたまりもないだろう」

 記者が聞く。

 「その通りです。だから空手は自ら攻撃しません。防御するだけです」

 「すると護身術ですか」

 「いえ、護身だけではありません。さっきもいったように心身の鍛練が目的です」

 「なぜ、心身の鍛錬になるのですか」

 「空手に先手なし、というのが第一です。これは空手を編み出した琉球人の哲学です。自ら争いは仕掛けないという精神です。西洋では欲しいものは争ってでも手に入れます。琉球にはそれがない。空手は争わないことを具現化したものです。人間の欲望をコントロールし、身体を鍛錬する。精神の健康も保ちます。心身の鍛錬というわけです」

 「レンガや板を割ることで空手の威力は分かりますが、実際に人間を相手にしたらどうなりますか」

 「相手は死にます」

 記者団がまたもどよめいた。

 「それでは練習はできない」

 「そうです。当たれば死にますから、試し割りをします。また、空手は組み手という練習をします。拳は相手の身体の三センチ前で止めます。日本では三センチは『一寸』という単位で表しましたから『寸止め』といいます。その上、顔面は絶対に殴らないことになっています」

 「寸止めをやってみて下さい」

 二人は礼を交わし向かい合って立った。

 順子が「エイッ」と気合いを込めて神山の顔面を突いた。そのこぶしは神山の顔の三センチ前で止まった。

 今度は神山が順子の右の胴を突く。同じように三センチのところでとまる。

 順子がさきほどのように突く。今度は神山の右手が目にもとまらぬ速さで動き、順子の手を払った。そのまま順子の右顔面を突き「寸どめ」をした。

 子弟の練習が続く。交互に打ち、払った。順子の長い黒髪が乱れている。

 一通り終わった。二人は正面に向って一礼した。すかさず「空手はいつ出来たのか」という質問が出る。

 「空手はいつごろからあるのか」という質問は当然である。記者達ははじめて空手の威力と練習を見たのであった。

 「およそ、四百年前に出来たと聞いています」

 「これまでヨーロッパに紹介されなかったのはなぜですか」

 「沖縄では空手は秘伝の術で門外不出だったのです。しかし、第二次世界大戦終了後、世界的に普及しました」

 「われわれから見ると単なる護身術のようにみえますが」

 「護身だけではないのです。彼女が良く知っている武術があります」

 「何ですか」

 「少林寺拳法です。やってみましょう。彼女は少林寺拳法の初段です」

 神山は順子と相対した。

 神山の右手が順子の身体に触れると同時に、関節をとられて投げ飛ばされた。関節を取られると自分から跳んでいかないと骨が折れる。

 「少林寺拳法は中国の仏教の僧が武術として習うものです。空手とちがって関節を取って決めるのです。きわめて強力です」

 「ボクシングと空手とどちらが強いと思いますか」 

 「ボクシングと空手とは違いますから試合できません。従ってどちらが強いかわかりません。多分、空手が勝つでしょう」

 「違うとはどういうことですか」

 「ボクシングも空手も同じ格闘技です。だがボクシングにはルールがある。四角のリングがある。グローブをはめている。腰から下を打ったら違反です。足で蹴ってはいけません。一ラウンド三分間という制限時間がある。それに体重によってクラスが違う。空手にはそのようなルールはいっさいありません。ルールの違う競技では試合はできません」

 「では空手同士だと試合は出来るのですか」

 「それも出来ません。もともと空手は試合をするためのものではないからです。心身を鍛えるのが目的です」

 「それは残念だ。折角覚えた空手を実際に役立てないのはもったいない」

 と先ほどの記者。神山は立ち上がっていった。

 「ですが最近、日本では防具をつけて実際に相打つのが流行っています」

 「ケガはしませんか」

 「ケガはほとんどありません」

 「殴ったり、蹴ったりするのですか」

 「そうです」

 「どうです。ここでやってみては…」

 「準備ができていません。それに防具も必要です」

 「では、実際に暴漢に見立てて空手の実演をしてくれませんか」

 そうだ、そうだ、という声が起こった。

 「いいですよ」

 カメラマンが再びざわめいた。会見は一時中断した。

 順子と神山は打ち合わせた。

 「どなたか空手と戦う人はいませんか」

 「おれがやろう」

 記者団の最後尾で声があがり、大きな青年が立ち上がった。身長は二メートル近く、体重は八十キロを越す。これを見ておれも、おれもと立ち上がったのがいる。いずれもがっちりした体格の男たちである。みんなで五人。

 東洋の女の子に負けるものかという気概がありありとわかる。

 そのうちの一人は学生時代にボクシングを習ったといった。あと一人は柔道練習場に通っているという。

 男達は前に出てきた。

 「順子を捕まえることが出来たら勝ち。殴っても、蹴ってもいい。順子も殴ったり、蹴ったりする。しかし、彼女は決してケガをするような殴り方はしない。心配なく」

 神山は簡単にルールを説明した。

 順子は机や椅子、スタンディングまきわら、地図、地球儀などを片付けた。

 そこへ五人が登場した。手をふりまわしたり、跳んだり、にぎやかである。

 神山が順子に「準備はいいか」と聞いた。順子は「いいです」と答え、空手衣の帯を強くしめた。

 いよいよはじまる。

 場内の空気が張りつめた。カメラマンが位置についた。

 最初の男が出てきた。

 両手の指をぽきぽき鳴らした後、こぶしを強く握りしめている。男が順子をつかまえようと両手を上げて迫った。

 順子は「えーい」と叫んで飛び上がり、男の股間を蹴った。男はうーんとうめいてしゃがみ込んだ。苦痛の表情が走る。

 神山は「入ったのか」と聞いた。「入ったか」とは金的にまともに当たったかという意味である。

 順子は「いいえ、外しました」と答える。

 神山は男に近寄り、のぞき込んでから「立つ」ようにいった。順子が通訳した。男が股間を押さえながら立ち上がった。ぴょんぴょん跳ぶように命じた。言われたようにすると痛みが去った。場内はシーンとしている。神山が説明した。

 「今のは足の付け根を蹴ったのです。怪我はありません。実戦では金的を蹴ります。それだと苦痛で立てません。先日、順子が乱暴者を退治したときには金的を蹴って倒しました」

 「次に前後から彼女を襲います」

 神山が説明した。次に現れた二人は上衣を脱ぎ、既に戦う姿勢である。

 前の一人がおっかなびっくりという格好で順子に近づいた。

 腰を引いて両手を前に突き出している。順子のケリを警戒している。

 順子は男の右手を取って強く引っ張る。そうはさせじと記者が身体を後ろに引く。つかまるとさっきの男のようにやられる。押し合い、引き合いになった。急に順子が手を離した。よろめいた瞬間、飛びかかり、男の右手の逆を取って投げた。男は悲鳴を上げながら宙に飛んだ。

 すかさず後方の男がつかみかかった。順子は振り向きざま、襟にかかった男の指を押さえ、関節を強く握った。男はこれだけで動きをとめた。あとは猛獣使いが暴れる猛獣を操るように男の関節を握って引きずり回す。男はどうすることもできない。

 「えいッ」

 ひときわ高い気合いを込めて投げた。男は三メートル先まで飛んだ。

 「最後はフリーです」

 神山がいった。ボクシングの心得があるという記者が出てきた。

 両手を胸の前にあげてボクシングスタイルである。軽いフットワークを見せながら、左手のジャブで順子を牽制する。

 順子が前に出ると下がりながら右フックが飛ばす。立ち止まると前後左右に回りながらパンチを繰り出す。

 記者会見場はボクシングのリングサイドのような雰囲気になってきた。声援が飛び交う。

 順子の動きが止まった。ボクサーがすかさず近寄りパンチを浴びせる。その瞬間、順子が男の足を蹴った。よろめく。もう一度蹴る。記者の身体が大きくゆらいだ。強烈な三発目。記者は倒れた。順子が飛びかかって右手を振り上げた。

 「そこまで」

 神山の鋭い声が飛んだ。

 記者はフットワークとパンチでつかまることを防いだ。

 だが、ボクシングは上半身だけの戦いである。順子の空手には蹴りがあった。手が届かないとみると順子は無防備の足を狙ったのである。

 これを見て後の一人はおびえた。やめるといい出した。

 テレビカメラはこの模様を残さず撮影した。カメラのフラッシュ、まばゆいテレビのライトのなかで、神山と順子の子弟は立っていた。

 「いまのは空手ですか」

 「いえ、すべて少林寺拳法です。空手を使うとケガをします」

 これをきっかけに矢継ぎ早やの質問がはじまった。

 中年の記者が聞いた。

 「先日の犯人もこのように投げ飛ばしたのですか」

 「そうです」

 「何年くらいで空手を習得できるのですか」

 今度は神山が答えた・

 「その人の資質にもよりますが、だいたい三年で初歩が分かります」

 「空手は沖縄が本場だと言うことですが、沖縄ではどのような訓練をしていますか」

 これは銀髪の女性である。

 「沖縄では各地に空手の道場があり、そこで老若男女が練習に励んでいます」

 「日本ではどうですか」

 「日本でも最近は空手を習う人が多くなっています」

 「空手を練習する人はどれくらいいるのでしょうか。つまり空手人口です」

 「我々は『空手家』と呼んでいます。空手家は全世界に五千万人いるとされています」

 「五千万人ですか」

 記者会見場がどよめいた。五千万人。英国の人口は五千七百万人だ。これは英国の人口に匹敵する。華僑が全世界に三千万人いるといわれているが、空手はそれを遥かに越す。しかも多国籍、多人種だ。

 「そうです」神山は胸をはった。

 「どこが一番多いですか」

 「日本の次ぎはアメリカです。アメリカ人は格闘技が好きです。空手を修得すると強くなれますから」

 「映画のカンフーが有名ですが」

 「そうです。世界の各地にはそれぞれ独特の拳法があります。中国には何百という拳法があります。カンフーもその一つです。カンフーには終わりがありません。連綿と続きます。それに対して空手は区切りがあります。初めと終わりが画然としています。中国の拳法の場合は連続した型の中にそれぞれのパターンがちりばめられているのです」

 「空手の種類といいますか、パターンはいくつありますか」

 「空手の代表的な型はナイハンチなど七種類あります」

 「全部覚えるのですか」

 「覚えます」

 「なぜ型を覚えるのですか。型とはなんですか」

 「空手の型は戦いの場面を想像して相手が打ってきたときの防ぎ方、反撃の仕方を訓練するためにできています。型を練習することは仮想敵との戦いということになります。ボクシングにシャドウボクシングというのがありますが、あれと同じです」

 「わかりました。それでは空手で一番大事なことはなんですか」

 「どんなスポーツ、格闘技でもそうですが、共通しているのは『闘志』です。闘志が全てです」

 「その『闘志』を持つのはどんなコツがいりますか」

 「そうですね」

 神山は一息入れた。

 みんなの目が集中した。記者にとってもっとも聞きたいのはこの一点である。空手は闘志が問題だといった。その闘志がどのようにできているか。どうしたら闘志が作れるのか、それが分かれば、空手の秘密を解き明かすことができる。すべてのスポーツ、ゲーム、格闘技で応用できるはずだ。

 しばらく考えていた神山の体が動いて正面を向いた。

 みんなが見守る中で神山は一語一語かみしめるようにいった。

 「正義感です」

 「正義感。ですか」

 「そうです。皆さんの仕事の理念であり、報道の使命である正義感と同じです。正義感がなくなれば空手は単なる喧嘩のための手段となります。空手の堕落です」

 場内はシーンとした。正義感こそ社会生活の規範である。すべてに通ずるというのだ。大勢の記者達は「正義感」という言葉をあらためてかみしめた。

 はちまきの「空手は正義なり」という一句にはこんな意味が込められていたのだ。

 「ほかのスポーツもファイティングスピリッツがあります。しかし、空手がほかのスポーツと根本的に違うのはこの正義感です」

 質問が変わった。

 「ヨーロッパの普及状況はどうですか」

 「スペイン、フランス、ドイツで盛んです」

 「世界大会も開けますね」

 「ええ、四年に一度世界空手大会が開かれています。一九九七年八月に沖縄で世界空手・古武道大会が開かれました」

 「英国からも出場しましたか」

 「はい」

 「英国はどこで空手を練習しているのですか」

 「ロンドンのダウンタウンに道場があります」

 「聞いたことがない」

 「それは情報不足ですね」

 「日本では警察も逮捕術として取り入れているのですか」

 「いま、みなさんがご覧になったように暴漢の撃退や犯人逮捕、護身術として極めて有効です。なによりも空手がもつ心身鍛練の機能が注目されています。日本の警視庁も空手の練習には力を入れています」

 「警部、どうですか。ロンドンでも空手を採用しては」

 警部は大きくうなづいて感心したようにいった。

 「素晴らしい術を見せて貰いました。ぜひ採用するよう上司に提案します」

 「そのとき先生はミス順子が一番いい」

 最前列の女性記者がいったのでみんなどっと笑った。しかし、警部は真剣だった。

 「ええ、ミス順子にお願いしたい」

 なごやかな空気が満ちた。

 「ところでミス順子はいつまでロンドンに滞在しますか」

 記者の関心は順子に集まる。

 「ただいま英語の勉強のためロンドンに来ています。ビザはあと一週間で切れます。私は英国を退去しなければいけません」

 「また、ロンドンに来ますか」

 「ええ、できれば。でも日本で就職することになるかも知れません。神山先生がアメリカで空手道場を開くので私は通訳として一緒に行くことになるかも知れません」

 「警部、ミス順子をアメリカ人に奪われそうです。なんとか、食い止めなくては」

 この言葉にみんなどっと笑った。

 「ミス順子をロンドンに来て貰うようお願いしましょう。日英親善の為です」

 これには英国大使館の佐藤書記官も笑った。

 記者会見は終わった。順子は身体中から緊張感が抜け落ちる思いがした。

 この一週間、大きな経験をした。はじめの暴漢二人とは真剣勝負であった。夢中で戦った。相手が怪我をするとか、空手で命を落とす心配など考えもしなかった。ただ「勝つ」ことだけが頭にあった。「まきわら」ばかり相手にしている順子にとって暴漢を倒したときの手の感触はいまも忘れられない。ねっとりした感じであり、生ま肉をつかんだときの、あの感触であった。その一方で、勝つと はこんなにあっけないものかと思った。

 今日の記者会見の空手は実演であり、生命に心配は全くなく、気が楽であった。しかし両方に共通していることは生ま身の人間が相手であることだった。

 空手の修練をしてから人間相手の戦いは初めてである。この経験は永久に忘れないだろうと思う。同時に順子の中に「空手とは何か」と聞いた記者の声が残る。

 もはや通り一遍の「心身の鍛練」では空手は説明できない。外国人には分かりやすい空手の理論が必要だ。順子の身体の中で「何か」が燃えはじめていた。

 記者会見が終わった翌日、神山はニューヨークへ出発した。アメリカに行く途中、順子の近況を視るためにロンドンに立ち寄ったのであった。順子も帰国の日が来た。

 ロンドン発の日本航空の座席で日本人スチュワーデスの懐かしい振る舞いに見入っていた。日本茶をもらうと、またも「空手とはなにか」という記者の言葉が思い出された。両手で湯飲みを握ると、新しい宿題を背負ったように感じた。

 「空手とはなんだろう」

 窓の外を流れる雲を見ながら思いにふけった。エンジンの音が心地よい子守歌に聞こえて順子は眠りに落ちた。

 「空手世界」の社長三好作造は記者の高村とともに成田空港にいた。午後三時を過ぎた成田はいつものようにごった返している。外国から航空機が続々到着する時刻である。人々はよどみなく出口に向かう。

 「この中から順子を探すのは大変だな」

 三好はつぶやいた。記者の高村は「そうですな」と相づちを打ちながら、辺りを見回す。

 午後三時四十分、日本航空四五一便がロンドンから到着したとアナウンスが知らせる。

 「順子は一人だよな。連れがあったかな」

 「いえ、一人と聞いています」

 

 「一人なら探しやすいだろう」

 「二十歳くらいの女性を当たればいいわけですね」

 「あれじゃないかい」

 三好が指さす方向にジーンズをはいて小型の旅行カバンを押してくる若い女性がいる。

 「ちょっと若すぎますね。たしか二十一歳ですよ。あれは高校生です」

 「わからんよ、君。ちょっと聞いてみてくれ」

 言われて高村は女性に近づいた。

 「違うそうです」

 残念そうに高村が振り返った。

 「おい、こんどこそ順子だ。今度はおれが聞いて見る」

 三好は人をかき分けて歩いていった。その女性はカートに旅行カバンを二つ乗せている。ピンクのブラウスに白のスラックス。髪はショートカットである。小柄だが身体が引き締まっている。身のこなしが何となくきびきびしている。

 三好は「失礼ですが順子さんですか」と聞いた。「はい、そうです」女性は怪訝そうな顔で三好を見た。三好は微笑を返した。初対面の人には微笑が一番いい。経験が教える。「月刊 空手世界 代表者 三好作造」と刷り込んだ名刺を取り出していった。

 「お迎えに来たのです」

 順子は「あら!」と大げさに驚いて

 「私をですか。何かあったのですか」

 「あなたのロンドンでの記者会見の模様をこちらのテレビが中継しましてね。それを見たんです。そのときのことを詳しくお聞きしたい」

 順子は日本のテレビが中継しているとは知らなかった。

 「あの、たいした事じゃないのです。でも記者会見には困ってしまいました」

 「空手とは何か」といった記者の質問をまたも思い出していた。

 「今後の予定はどうなっていますか。そこらでお茶でも飲みながらお聞きしたい。他の社は取材の申し込みはありませんか」

 「いえ、別に予定はありません」

 「じゃ、いいですね。こちらは記者の高村です」

 三好はいつものように強引である。三人は空港の近くのホテルへ歩いていった。順子が宿泊の予約をしていたのである。

 喫茶室でイスに座るといった。

 「日本人の女性空手家が英国にいるとは知らなかった。なぜ、英国に留学したのですか」

 「英語を徹底的に習いたかったのです」

 「上達しましたか」

 「記者会見で使った程度です」

 「あれだけ話せたら大したものです」

 「大学を休学してロンドンに行っていました。明日は復学の手続きをしてきます。それから鹿児島の母のところに一週間ほど行って来ます」

 「私どもの『空手世界』は日本の空手界の動きを詳しく報道します。英国報告を書いてくれませんか」

 「どんな事でしょう。私は論文を書くのは苦手です」

 「なに、練習すれば簡単です。英国の空手事情ということでどうでしょう」

 「実はそんなに詳しく知らないのです。英語の勉強が目的でしたから空手界はほとんど触れる機会がありませんでした」

 「ロンドンで凶悪犯を退治したのは見事でしたね」

 三好がいかにも感心したようにいった。

 「主に少林寺拳法を使いました」

 「少林寺ですか」

 「そうです」

 「少林寺拳法には何か特別の理由があるのですか」

 「特別にございません。しかし、外国に行くときはよほど用心しないといけません」

 「それはそうだ」

 「日本人は顔を見て大体どんな人か分かります。用心できます。しかし外国人はさっぱりわかりません。用心する以外にないのです。ほんとは柔道も習って行きたかった」

 「用心深いですね」

 「こんなのを持っているのですよ」

 順子はポケットから掌に乗るような小さなものを取り出した。

 「なんですか」

 好奇心いっぱいの三好と高村は順子の手の中をのぞきこんだ。ドーナッツのようなものである。

 「ドーナッツですか」

 順子は微笑んで

 「違います」

 「あれッ、リングじゃないですか」

 「そうです。木で出来たリングです。ほら、昔、不良少年が持っていたメリケンですよ」

 順子は手にとって二人に見せた。直径五センチほどで中は空洞になっている。ドーナッツに見えたのも無理はない。

 「ほんとだ。へー、だけどメリケンは鉄で出来ていた。これは木製だ」順子は指をリングの中に入れてしっかり握りしめた。

 「ほら」

 テーブルをぱんぱんたたいた。乾いた音がしてテーブルが揺れた。

 「へー、これをどうするのです」

 「木製のメリケンですよ。鉄だと飛行機に乗るときの身体検査でレントゲン写真に引っかかります。取り上げられるのはいいのですが、説明が面倒です。相手を殴るといったら凶器だと思われます。だけど木製だと写真に写らない。だから取り上げられない。説明もいらない。その上、軽い」

 順子の声はリズミカルで明るい。

 「そうですね」

 「いつもポケットに入れておきます。何かあるとポケットに手を入れて握りしめて戦う準備をしています。これで殴ろうとね」

 「うん。すると何も知らない相手は殴り倒される」

 「そうです。拳より威力があります。大抵の人は一発で倒れます。顔だと骨がくだけます。肋骨だと折れます。こん棒で殴られたのと変わらない効果です」

 「準備がいいんだ。この人は」

 三好と高村は顔を見合わせてひとしきり感心した。

 「すると空手、少林寺、木製メリケン、貴女はこの三つを持っている」

 「それでも、外国では用心しないといけません。髪をショートカットにしたのも用心のためです」

 「どういうことですか」

 「髪が長いと相手につかまる恐れがあります。女子プロレスで長い髪をつかまれて振り回される場面を思い出してください。男の人に髪をつかまれると自由を失います。もっとも危険な事です。短いとつかめない。」

 「そんなものですかね」

 「ロンドンの場合は空手を知っていたから助かったのです。もし知らなかったら大変なことになっていたでしょう」

 「うーん」

 三好がうなった。

 「偉い。貴女にはやはり書いてもらわないといけない」

 「いやですよ。おだててもだめです」

 「これは空手のためと、もうひとつ海外旅行が盛んな日本人のためです。お書きなさい」

 「鹿児島から帰って考えます」

 成田の夜は更けていった。

 順子は「空手とは何か」この社長に聞いてみたかった。のどまででかかっていたが止めた。長い理屈になってはかなわない。第一疲れていた。早く一人になりたかったのである。

 翌朝、順子がチエックアウトの手続きをしていると三好と高村が来た。

 「あら早いですね」

 「貴女と大学へ行こうと思いましてね」

 「私は午後の新幹線で九州へ行きますが、…」

 「一緒に大学へ行って復学を少しのばしてもらいたいと思いましてね」

 「どうしてですの」

 「貴女に英国の記事を書いてもらいたいのです。学校に行くと記事を書くのがおろそかになる」

 順子は笑い出した。これでは大学は付け足しで雑誌の方が大事だといわんばかりではないか。

 「なぜ、そんなに記事が大事なんですか」

 「歩きながら話しましょう」

 三人は駅の方に向かった。東京行きの電車に乗る。

 三好は「空手世界」のことを考えていた。空手が世界中の人に愛好され、普及していることは人々が空手を通じて何らかの共通点を持ち、何かを語り合おうとしているのではないか。

 もし空手に人間をつなぐ何らかの要因があるなら「空手世界」も世界的に読まれる雑誌になるはずである。英国での出来事を記事にして読者の反応を知りたい。そんなことを考えていた。

 順子はたった一日しか顔を合わせていないが、三好に何となく親しみを感じていた。

 無遠慮に飛び込んできて、あまりものごとにこだわらない。記事のためならなんでもするといった姿勢。こんなのが入り交じっている。

 順子は三好のように何の屈託もなく仕事ができる人をうらやましく思う。

 三人が乗った電車は東京の中心部を走っていた。目の前に大手新聞社のビルがあった。

 「私はあの新聞社で働いていたのですよ」

 そばの順子にいった。

 

 三好は大学を卒業するとすぐに新聞社に入社した。地方の支局で警察、県庁、経済界をまわって経験を積み、東京本社では大手企業、政治家、団体、政党、文化団体をカバーしてきた。

 ある大手企業の社長が三好を食事に誘った。良くあることで軽いつきあいのつもりで行った。

 「君、今度、新しい媒体を作りたいのだが、相談に乗ってくれないか」

 「いいですよ。どんな構想ですか」

 「うん、友人に空手の専門家がいてね。そいつが空手の専門雑誌を出してはどうかというのだ」

 実業家はビールを片手に「空手は沖縄で誕生した。今ではわが国はもちろん、全世界に普及している。しかし、空手の機関紙的な媒体がない。専門の雑誌を出したらどうだというのだ。君の意見を聞きたいね」

 三好は「なるほど」と思った。日本語の新聞はいくら部数が多くても範囲は日本国内だけである。それに反して空手雑誌は世界的なスケールが望める。

 「スケールが大きいだけに面白いじゃないですか」

 感想をもらしたのが運のつきだった。

 「どうかね、きみ、やってくれないか」

 「えッ、私がですか」

 媒体は簡単にはいかない。

 「いま、面白いといったじゃないか」

 「面白いとは思いますが、だから出来るというものではありませんよ」

 「資金面の事を言っているなら、俺が責任を持つ。経営は一切任せる」

 「キャンディでも買うようにハイハイというわけにはいきませんよ」

 三好はいいながら「これはひょっとすると面白いことになるかも知れない」とひそかに思う。

 「ま、今日のところは研究課題という事にしましょう」 「頼むよ君」

 実業家は真剣な顔をした。それから二人は政治の話、経済の動向、うわさ話をして分かれた。

 翌日、三好は編集局のソファで「あの実業家は何を狙っているのか」思いめぐらした。

 メディアは利益を生まない。利益を追求する実業にはなじまない。メディア経営は赤字が出ないで大成功、黒字を期待すると、とんでもないことになる。

 三好は実業家に会って困難なことを告げるべきだと思った。さっそく電話を取った。「先日の件でお会いしたい」というと「待っていたよ」という。

 「午後三時頃、いかがですか」

 「いいよ。どうする」

 「私がお伺いします」

 「そうか」

 社長室に通されると三好は挨拶もそこそこに

 「例の件ですが、経営は期待できません。相当の資金を食いつぶして結局うまく行かなかった、ということになります」

 「そうかね、私はメディアは良く知らないからなんともいえないが…」

 「メディアに関心を持つ真意は何ですか。他に利益になる事業がたくさんあるはずです」

 「じゃ、いおう。資金はたっぷりある。君が心配することはない。利益を生み出さなくてもいいんだよ」

 「でもやる以上は成功させませんと」

 「きみ、こう考えたらどうかね」

 三好は実業家が何を言い出すのか興味津々だった。思わず身を乗り出した。

 立ち上がると机の上から一冊の本を持ってきた。タイトルに「メセナの経済学」とある。「媒体もメセナだ。最近のメセナは講演会、芸能、スポーツとワンパターンだ。片寄っている。しかし、雑誌を持つことは日本の文化に貢献する。雑誌の中心は空手だ。日本生まれの空手が日本文化を世界に広める。その意義は大きい」

 「それだけですか」

 三好は思い切っていった。メセナとは表向きではないのか。百戦錬磨の実業家がそんな甘いことで動くはずはない。

 しばらくして

 「名誉じゃよ」

 実業家はつぶやくようにいった。

 「名誉ですか」

 「そう、名誉だ」

 「名誉のためにメディアをもつなんて邪道です」

 「邪道かね。ワシはあらゆる事業で成功した。金も出来た。しかし、名誉はつかめない。名誉と権力を持ちたいのだ」

 「メディアの人たちは報道に全力をあげています。純粋です。名誉のために報道している記者など一人もいません。名誉と報道とは無関係です。次元が違います。それより空手をどう使いますか。権力とおっしゃいましたが権力とはどういうことですか」

 「世界を俺の命令一つで動かすことが権力だ」

 「そんなことが出来ますか」

 「出来るとも。君、オリンピックでも委員会の命令一つで世界が動く。宗教家、政治家、企業家、スポーツマン、いずれも世界を動かしている。空手で動かすことだってできるよ。おれは世界空手連邦を作るのが夢だ。本部はここにおく。金も名誉も権力も同時に持てる」

 実は空手を利用して金儲けを企んでいるのだ。構想に目を見張る。同時にこのような金もうけは自分の主義にあわない、と思う。

 三好の顔を見て実業家はいった。

 「君、世界はかね儲けで動いている。金というのはだ、どのように儲けてもいい。反社会的ではいけないが、所詮、金は金だ。問題はその使い方だよ。わしは儲けた金を有効に使う。その使途も考えている」

 そういって三好を睨んだ。その目は事業に執念を燃やす目である。この目はどこかでみたことがある。記憶をたどった。そうだ。あの文具メーカの専務が見せた目だった。

 文具メーカーの専務にインタビューしたとき「私も君の社の記者だったのだよ」といった。

 「どうしたのですか」

 「うん、新聞社の先輩記者をみたとき、おれもぼやぼやしてはいけないと思った。論文を発表し、政治家や、経済界、社会の出来ごとを報じてきた有能な記者達が定年で退職すると、まるで使い物にならない。これは何故だろうと疑問に思ったね」

 サラリーマンは退職するとだれも見向きもしてくれない。本人は、ただポッカリ空いた暗い空間で生きているだけだ。

 記者をやめて大学の講師になれるのは運がいい方である。大部分は退屈な毎日を送る。寂しい限りであった。世渡りの上手な記者は退職後のことまで考え、さっさと政界へ転進したり、実業界へ移っていった。新聞記者は果して自分を完全燃焼させたのだろうか。

 「このことがわかったので辞めることにした。ここの社長にたのんで採用してもらった」

 「その縁で専務にまでなったのですか」

 専務は笑いながら、

 「そんなに甘いものではない。新聞社は辞めたが、新聞記者のノウハウまで捨てたわけでない。入社するとすぐに営業に回された。大企業と取り引きをするためだ。私は記者時代の経験を生かし夜うち、朝駆けで各社の首脳宅や官僚たちを訪ねて歩いた。夜遅く訪問して退社の挨拶をしながら取り引きをお願いする」

 「簡単に応じてくれましたか」

 「いや、そうではない」

 「どうしました?」

 「だいたい、セールスマンは売り込みに夢中になって、自分のいいたいことしかいわない。ところが企業のトップは人の話は聞かない人種だ。周囲の人は自分の話を聞くものと決めてかかっている。これはトップの習性だ。無理に話をすると説教になって失敗する。そこで私は徹底的に相手の話を聞くことにした」

 「セールスは話を引き出せるかどうかが勝負のポイントだ。新聞記者は話を引き出すのが商売だ。君も私の話をうまく引き出している」

 「そこで私は徹底的に話をさせた。それも世間話ではない。その人のとっておきの話、自慢話し、苦労話し、手柄話し、家庭の話しなどだ」

 「で、効果はありましたか」

 「あったね」

 実業家は深くうなづいた。

 「これまであまり聞いたことはないことばかりだった。いわば秘密めいたことを話すのだ。トップのふところに入ることができたといっていい。君にも経験があるだろうが、初めての人と一晩酒を飲むと十年前から知っていたような奇妙な親近感を覚える。あれに似ているな。こうなったらしめたものだ。こっちのいうことも聞いてくれる」

 次々と取り引きに成功し、たちまちトップセールスマンになった。部長になり、ついで取締役に抜てきされ、常務、専務に駆け上がるのに時間はかからなかった。

 なるほど、この目である。トップに立つ人の執念を燃やす目だ。

 三好は思わず「やります」と答えそうになってぐっと押しとどめた。「ちょっと待って」というささやきが三好の中で動いた。無条件で引き受けるのは待て。電車に乗ってから思った。

 「そうだ。私に大きなスポンサーがついたと考えたらどうだ」

 今さら新聞記者をやめて事業家やセールスマンにはなれない。といって辞めても生活に心配のないほど資産があるわけでない。三好は決心した。

 「そうだ。空手雑誌に賭けよう」

 定年後も心配ないように。また生涯、定年がないように。そう決めると実業家に申し入れた。

 「お引受けしましょう。ただし私に株をくれませんか」

 実業家はジッと三好を見ていたが「いいだろう。私もその方がいい。株の五〇%は君の名義だ」こうして月刊「空手世界」が誕生した。

 実業家がつけてくれた佐藤は有能だった。面倒な事務はすばやく片付けた。おかげで三好は経営全般に目を配ることができた。

 記者の高村をスカウトし、紙面企画を立てて花々しくスタートしたのだった。


| ライブラリー | 空手ホテル2へ |
本ホームページに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての著作権は沖縄観光速報社に帰属します。
Copyright (c) 1996 Okinawa Kankou Sokuhousya. No reproduction or republication without permission.