明治初期トップ級漢学者

旭 福泉


 一八四一年、検福生れ。明治初期、徳之島での漢学者のトップ級であり『更生の伊仙村誌』(一九三六年伊仙村発行)は、明治初期、村のリーダーで福泉の教えを受けないものは居なかった。福泉は 文明開化の元祖であると書いている。

 しかし、福泉に関する記録はほとんどない。徳之島町発行の『徳之島町誌』に、一八七二年(明治五年)亀津の安住寺跡に初めて出来た学校の教師に、旭福泉と福澤福祐の二人が迎えられ、その後、 福泉は徳之島人第一号として鹿児島師範に入学したとある。

 この学校は全島から生徒を募集、五十数人を一つの教室で教えると言う徳之島では初めての学校式のものでもあった。これを機に従来は、流人の個人教授による島役人や地主の師弟だけの学問が農 民や女性まで入学可能とした「郷校」制度に変わって行った。

 福泉は、明治十一年に亀津に出来た徳之島教員仮伝習所教師として教員養成に当たった。県からは小野正尊が派遣されて来た。明治十五年二年十四日、面縄村外九ケ村戸長に任命された。給料は月 額九円で戸長級のトップとなっている。

 検福の「福田正明文書」で、福泉の家がすぐ隣にあり漢学をそこで学んだこと、明治十八年、第二学区学務委員をしていたことが分かった。明治三〇年、大島島庁島司笹森儀助の「大島郡人物調べ」 に「旭福泉、五五歳、戸長、文筆あり。長男、福建、三〇歳、文筆あり、無職」とある。

 福泉の教えを受けた大地主や教育者たちは、蓄財と立身出世だけに血道をあげる事なく、福泉の功績を顕彰し後世の教訓にして欲しいものだ。子孫はどうしているのかについての記録を期待したい。

 《参考文献》笹森儀助資料、明治三〇年「大島郡人物調べ」青森県立図書館所蔵。昭和五七年二月十五日「徳州新聞」連載「福田正明文書」(伊仙町検福、福田登代子所蔵)


明治の黒糖騒動記を記録

浅松宮啓


 一八五六年(安政三年)浅間生れ。母は流人の娘、一九二八年に鹿児島市で七三歳の年の祝をしているが没年は不明。回顧録には、奄美人が島豚とさげずまれ鹿児島商人の高利負債の罠に落ちてい た明治二十年代の黒糖取引を巡る騒動記録が克明に体験記として収録されている。

 「大島の恩人、石井清吉、新納中三、阿部商店」と題する記事が最初に発表されたのは、鹿児島で発行されていた郷土誌「奄美大島」昭和四年一月号であった。この三人が奄美に自由民権思想を伝え、 鹿児島県と鹿児島商人が島民の意思を無視した黒糖取引の独断を打破した功労者でもあった。

 宮啓自身が黒糖生産者であり鹿児島商人と法廷で闘った一人であり当時の模様は生々しい記録でもある。明治二一年、鹿児島商人の高利で奄美の負債は年間生産量を越えていた。一方的に決められ る利息や用品と黒糖の交換比率訂正のため全島人民代表が名瀬で会議を開き、徳之島にいた慶応義塾出身の三重県人石井清吉を代表に迎えその指導で始まったのが三方法運動であった。

 石井は大島の裁判で島民が負けたものを長崎に控訴、すべて逆転勝訴させた。沖永良部島でも、喜界島でも鹿児島商人と島民の抗争が続き、控訴して勝利した記録も宮啓の回顧録にある。

 「明治十年、西南の役で武器が不足した西郷軍は、大山県令を通じて徳之島にある鉄砲と錫製品の供出を大島支庁に命じた。三等副戸長の麓純則は、徳之島の亀藤豊に協力させ鉄砲を集め船便待ちの ため母間港で待機していた。官軍の密偵がこれを知り、山から駆け付け麓を逮捕亀津に連行した。亀津浜で死刑になると言うので豊中から見物人が殺到した。亀の機転か鉄砲はすべて地中に埋められ 証拠なしで麓は命拾いした」と言う秘話もある。

 島の振興策について数多くの提言や運動をした。自由民権こそが島を救うものとの人生観の実行者でもあった、大徳水電の経営者は宮啓の長男。


徳之島で水力発電を経営

浅松啓良


 一八八八年、徳之島天城町浅間生れ。父宮啓、母あちゃ長男。一九四八年、熱海で没。一九一四年、京都帝国大学電気科卒。本土で学んだ知識を島の産業開発に活用した工学士第一号でもある。

 大学を卒業して藤山雷太に見込まれ、藤山コンツェルン傘下の企業で技師長や常務など歴任、中央財界でも頭角を現した。

 関係した企業は、小田原電気、箱根観光、相川電気、武蔵中央電気鉄道、東京電灯、神戸の有馬電鉄専務など数多くあり、個人で設立したのに東京電気工業や熱海の温泉旅館などがある。鹿児島電 気軌道の設立参加、川内電気技師長など歴任、鹿児島県電力業界のパイオニアでもある。徳之島の水力発電も設計、後に社長に就任、電気代支払いはサツマ芋でも良いとして島の電力化に貢献した。

 電気代に集めたサツマ芋で澱粉工場を建設するなど島の現地産業の育成に努力、島の発展について数々の提言もしている。

 「政府から四五〇〇万円を借受け奄美群島に一千トン級の船が台風時でも安心して停泊来る港を建設する代議士が出たら自分の年収の半分を何時でも捧げる」と新聞に発表。

 「島は天候に恵まれ各種生産物が豊富に出来るが郡民はこの天恵を活用しない。焼酎は不況時でも年間六〇万円を輸入している。ソテツやサツマ芋で出来るのに作らない。米も一六〇万円、ソーメン が三〇万円、大島紬の原料も名古屋から輸入している。

 島の工業化を計り原料の自給体制を確立すれば島は楽園となる」先人の声を今からでも聞いて島興しの糧にしたらどうか。

 《参考文献》『島興し通信』(松田清編)五四号、『奄美大島』月刊誌縮刷版、二九六頁。奄美社刊。


東条内閣打倒運動で投獄

東(あずま)博志


 一九二二年、徳之島井之川生れ。一九八九年没。戦前に東条内閣打倒運動で入獄。戦後、兵庫県奄美連盟(後の連合)を全国に先駆けて結成、事務局長として日本復帰運動を展開、神戸市で日本公 論社を設立、出版活動も展開。

 一九三六年、関西学院大学哲学科卒、中学(旧制)教師となり、四一年、日本出版文化協会大阪支局(内閣情報局外郭団体)に入り出版活動に従事した。

 戦争末期、中野正剛代議士を党首とする全体主義政党でもある東方会の支部が関西でも結成され、その事務局幹事として東条内閣打倒運動を展開した。

 一九四二年六月には三〇歳で神戸市議会議員選挙にも出馬。この政党は旧左翼の大衆団体を吸収して全国で急速に拡大した。四三年十月、政府の弾圧を受け一斉に逮捕され、党首中野の割腹自殺で 潰れた。

 東は、関西事務局の再建と無産大衆の組織化を目指して時局懇談会を度々同志らと開催した。細かい活動内容が特高警察(思想犯取締専門)発行の「特高月報」に詳しく記録されている。四三年十 二月六日、治安維持法違反として神戸市で逮捕され戦後出獄した。戦前に東条内閣打倒運動を展開したただ一人の奄美人でもある。

 戦後は、兵庫県で復帰運動、出版活動、会社顧問をしたが、一九五八年、豊中市服部緑地公園内に建設された日本民家集落に奄美の高倉を移築するよう級友の鳥越憲三郎大阪学芸大教授に要請実現 した事は特筆される。

 《参考文献》「神戸新聞」(一九四二・六・七)「特高月報」(一九四四年三月、十月)重信健二郎『奄美の人々』関西編。「鹿南太陽新聞」(八九・八・二一)


南島史学研究の大学教授

東 喜望(よしもち〉


 一九三二年神戸市生まれ、徳之島徳和瀬二世。父喜通、母カマ長男、男四人兄弟。一八六〇年代に郷士となった京家の次男家の子孫。始祖は徳和瀬根人の妹。海岸にサムライ墓と言うのがあり寛政 八年「福嶋」の石板がある。ここが遠祖の墓。福嶋は京家の入り婿か。

 白梅学園短期大学教授、法政大沖縄文化研究所所員、同大原社会問題研究所研究員。奄美出身の大学教授が全国で数十人いるがその中で研究発表を最も活発に行っているのが東教授である。公刊書 に出生地が神戸となっているため徳之島人としてはあまり知られていないようだ。

 一九四五年、旧制大島中学入学、病気休学のため、五二年、大島高校卒。五八年法政大日本文学科卒、大学院卒。文学修士。法政夫、和光大、沖縄国際大の講師など歴任。七七年、白梅短大現職。

 高校時代は、自治会書記長として日本復帰運動に専念、社会問題にも関心が強い熱血家でもある。研究は日本文学だけでなく南島の歴史と文化、民俗学、民話など多岐に亘り発表文は百点近い。

 所属学会も、日本文学協会、日本民俗学会、南島史学会など八団体。文部省や私学振興財団の助成研究には「中国福建省と琉球の交渉」「八重山の総合研究」など南島史関係が多い。

 著書、校注本『南嶋探験』平凡社(東洋文庫)。『上田春秋「春雨物語」の研究』法政大学出版局。他に共著二十数点。東京の徳之島出身者の勉強会に招かれて島の歴史についての講演も気楽に引き 受けている。


日刊の奄美新聞を創刊

新(あらた)天嶺


 生没年は不明、本名は寳栄。徳之島母間生れ、奄美新聞創刊者、カトリック追放運動の中心人物。明治末期に島を出て神戸市役所書記。

 一九二六年、鹿児島市武山宮信の月刊誌『奄美大島』神戸支局主任、同誌に「私学心を抑え奨学心を伸ばせ」の提言を書いて居るが文筆力もありどこで学んだのかは不明。

 同年六月十六日、大阪毎日新聞が「薩南の孤島に大杉栄の碑発見」の記事を掲載したがこれについて大杉は不倶戴天の異端者として激しく攻撃している。

 民政党にも関係しており、新聞人か、政党人か、素浪人か分からないと言う記録も有り夢の多い人生でもあった。

 一九二二年、十六年ぶりに母間に帰り母を連れて神戸に戻った。二九年、大島新聞内山尚忠社長に請われて主筆兼編集長として名瀬に赴任。

 三四年、要塞司令部、国防婦人会などと提携、カトリック追放運動を起しその中心となり新聞を拡張した。新聞はすべて政府の広報の役割を果たしていた時代でありご用記者として活躍したのは新 記者だけではなかった。

 三六年、大島新聞を退社、日刊の奄美新聞を創刊。土岐直家、登山恒孝、小林正秀らが編集に参加、資金は大島紬同業組合存続派の、有村治峯、良二久夫、隆義心、有島辰男らが出した。

 存続派の機関紙的役割も果たし順調に伸びたが三七年四月三〇日施行第二〇回総選挙で小林三郎衆議院議員候補を支援して選挙違反に問われ社員のほとんどが逮捕され新聞発行は中絶した。釈放後 記者たちはやる気を失い四散して奄美新聞は潰れた。

 《参考文献》『改定名瀬市誌』2巻。『奄美大島月刊縮刷版』上巻、奄美社。


鹿児島商人の狼藉を阻止

石井清吉


 一八五六年、三重県度合郡小俣町生れ。一九二四年種子島西之表市没。明治初期、徳之島に来て石井塾を開設、自由民権思想の普及と鹿児島商人の不当な商取引を裁判で破り島の救世主と尊敬され た。慶応義塾出身。

 明治になり奄美にも初めて金銭による取引が認められ鹿児島商人が奄美の黒糖買い付けに殺到した。商取引について全く経験のない島民は警察に保護された鹿児島商人が勝手に設定した高利で常識 を無視した取引を強要された。

 鹿児島県は、他地域商人の奄美入りを禁じ、農民の日用品も鹿児島商人から買取りを強要、藩政時代の慣習を維持した。例えば一斤の番茶について黒糖十斤の交換比率を鹿児島商人は決めた(大阪 商人は三片)。砂糖百斤分の品物を受けとり、台風などの天災で未納となれば一年後は利息が付いて二一六斤借用の証書となった。

 明治二十一年、奄美群島内の負債総額は五十万円になり一年分の生産額を越えた。この高利地獄からの脱却を目指して三方法運動を提唱指導したのが石井であった。地元の裁判所は鹿児島商人とぐ るになっていたので地主側は裁判で勝っていた。石井は、人民代人となり長崎の上級裁判所に控訴しすべての裁判で勝った。莫大な島民の負債は支払い不要となり、鹿児島商人は破産撤退した。

 徳之島で、与名間の広田實儀志の姉トナを妻に貰い浅間で土地を買い塾を開いた。それ以前母間でも塾を開いており島のリーダーに石井塾門下生が多い。島の経済の振興に石井が及ぼした影響は大 きいものがある。明治三十年、種子島開拓社に招かれて徳之島を離れた。石井を慕い徳之島からも種子島移住者が増えた。昭和十五年、谷村秀綱熊毛支庁長の調査によると岡前、浅間出身者が中種子 中心に三四世帯あり、大農家が多かったとの記録がある。

 《参考文献》「道之島通信」一四四号、「徳之島郷土研究会報」十九号、「徳州新聞」一九七六年二月二日号。


沖縄奄美に新劇旋風一号

伊集田實


 一九二四年、徳之島面縄育ち。父實行、母ぐで長男、始祖は面縄流人で薩摩藩士の伊集院弥八郎。一九九一年東京で没。演劇作家。

 一九四七年、日本から分離されてアメリカの軍政下にあった奄美大島の名瀬市で劇団熱風座を結成「犬田布騒動記」という農民一揆を上演、薩摩藩に抵抗して立ち上がった徳之島農民の勇気をたた えた。この芝居が奄美における新劇第一号でありロングセラーとなり、伊集田の名声を不朽なものにした。

 實は東京で生れ、徳之島で育ち、小学校五年の時、東京芝の南海小学校に転入、中野学園中等部を卒業、新劇に興味を持ちシナリオに就いて独学した。

 軍隊にとられ台湾で終戦、比島コレヒドル要塞片付け要員として動員された。捕虜慰安のため作った「桜星劇団」に参加、初めてシナリオを書いて喝采を受けた。

 一九四六年、徳之島に復員、伊仙小作人組合結成に参加、四七年、名瀬に出て劇団結成に参加代表となる。後、フリーとなり、脚本を次から次へと書いた。その数は本人でも分からないほどで一巻 の本になる量であった。四九年、勉学目的で本土に密航、共産党本部を松田清の案内で訪問、徳田球一書記長と握手激励を受け感動したが入党はしなかった。

 五一年、沖縄に渡り「按司と盗賊」など発表、沖縄芝居に新風を吹き込んだ。八七年、東京で『犬田布騒動記』を脱稿、海風社から出版した。

 《参考文献》『伊集田實劇作集』道之島通信社。「南海日日新聞」(九一年五・二二、六・十二。九六年一・一〜三・十二)琉球新報(九一年五・二二)沖縄タイムス(九一年五・二〇)。


世界一長寿で徳之島PR

泉重千代


 一八六五年、徳之島阿三生れ、父母氏名不詳、一九七五年、一二一歳で長寿日本一、七九年、長寿世界一となり『ギネスブック』に掲載される。七一年、伊仙町名誉町民。八四年、自宅に銅像建立。 八六年没。

 長寿日本一になってから毎年テレビ各社が放映、徳之島の観光では泉翁宅訪問がメインの一つとなった・お賽銭を包み翁から一杯の焼酎を振る舞われて長寿の妙薬でも授かったような気分で観光者 を喜ばせた。

 県知事が訪問、国民栄誉賞を申請したいと話したり鈴木善幸首相が沖縄からの帰路、徳之島空港で会見したり徳之島観光に大いに貢献した。

 七九年、地元で発売した「泉重千代長寿の酒」を訴え、看板料、二年分として酒三五〇〇本(一升ビン)現金一〇九万円をとり販売を認めたり、関西に初旅をして話題をまいた。

 地元の役場発行のパンフレットは父為源、母つるかめと書いてあるがこれは職員による作文と判明。『週刊読売』は、これを批判、五項目の疑問点を誌上に発表した。戸籍謄本では七歳で家督相続し ているが相続者も十四歳、当初実父だったのが四〇歳の時の裁判で養父に変更した。何時養子に行ったのか明確でない、両親の名も覚えていないのに生年月日はどうして覚えて居たのかなどであった。

 《参考文献》「道之島通信」七六号、八〇号、『週刊読売』(八〇・十二・七)八木俊一(松田清共著)『泉重千代物語』パンリサーチ社。泉順江著『泉重千代長寿の秘訣』コア。『泉重千代翁寿像建立 記念誌』同建立委員会。


日本復帰運動議長の詩人

泉 芳郎


 一九〇五年、徳之島面縄生。泉延宏の長男。本名敏登、一九五九年東京で没。ルーツは、一七三五年、面縄流人の薩摩藩士小牧一郎左衛門。

 鹿児島第二師範卒、赤木名小時代、牧野周吉、山田秀厚らと時局批判演説会を開き教師の本分に背くとして配転となる。二七年、第一詩集『光は濡れている』白鳥省吾序文、大地舎刊。三一年、日 大専門部国文科中退、三二年、第二師範廃校反対運動を四本忠俊らと行なう。

 一九三四年、東京で詩の同人誌を創刊、第三詩集『オ天道様ハ逃ゲテイク』を非合法出版。著名な無政府主義者石川三四郎らと交流、農村青年社活動に参加。

 この運動は、結成主義拒否、中央的組織拒否、自主的分散活動、アナキズム文学の宣揚、ブルジョア文学、ボルシェビキ文学を拒否、過去の歴史と絶縁し新しい歴史の創造、屈従的精神を廃止自由 な連帯社会の建設、詐欺的な政治運動から文芸解放を目指した。

 三九年に徳之島で教職、四六年県視学、翌年、名瀬青年団で「唯物論的物の見方」講演、文芸家協会を結成会長就任。四九年月刊自由社社長。五〇年社会民主党委員長、五一年二月に奄美大島日本 復協議会を結成議長就任、九月名瀬市長当選。復帰運動で数回も断食祈願、奄美のガンジーと呼ばれる。日本復帰後、社会党入党、衆議院に立候補落選。「一番嫌いなもの軍人、役人、政治家」の信念 も時代の波に流された生涯でもあった。

 《参考文献》『泉芳郎詩集』「泉芳郎の人間と文学」『近代日本社会運動史人物大事典』@日外アソシエーツ刊。「道之島通信」五二号。


はぶの三万円買取り提言

系 正敏


 一九二七年糸木多生れ。一九八九年没。父重徳、母ミネの四男、弁護士、奄美群島開発審議会副会長。小学校五年生で鹿児島に転校、鹿児島二中から高等農林に進学。

 一九四七年、自治会総務委員長として校長排斥運動の先頭に立つ。奄美が分離され送金が途絶えた中でアルバイトをして翌年卒業。

 五〇年、奄美群島政府農務部入り、後琉球政府へ。製糖作業を馬力から十五トンの動力切り替えに奔走。夜は琉大で英語を学び通訳を目指した。

 五三年、留学試験に合格、米国ルイジアナ州立大学に一年留学した。さつまいものことを「ヤン」と聞かされびっくり、どうしてここに島口がと不思議だったと言う。

 留学から帰ったら奄美の日本復帰で奄美人は追放となった。五四年、上京、通訳志願から弁護士志願に人生目標を変えた。中大に入学一切の交遊を絶ち猛勉強に励んだ。八年後に目的を達成弁護士 を開業した。

 大島郡トップの富豪家の育ちとは思われない庶民性と腰の低さは評判を高め支持者を増加させた。八二年、東京弁護士会副会長に当選。関東伊仙町会は総会で四万五二二一円の募金を集めて選挙支 援激励した。歴史的に例のないことでもあった。

 首相の諮問機関である奄美群島振興開発審議会で奄美人初の副会長に就任。農政通としてハブ撲滅が農業振興に不可欠であり、一匹三万円買い上げを提案、地元の喝采を受けたが自民党に拒否され た。

 昭和生れ初の東京奄美会幹事長、関東伊仙会長なども歴任。頼まれると冠婚葬祭、小中学校の同窓会やゴルフ、囲碁会の世話役、徳之島や名瀬での講演等なんでも引受一滴の酒も飲まず多忙を極め た。「郷友会は心の疲れをいやし友の奮闘を知り勇気を与えてくれる場所」と大事にした。

 墓は横浜市金沢区大浦町八景苑。

 《参考文献》「南海日日新聞」(七七・二・十五、八九・五・八)「道之島通信」六〇、六四、八四、九四、九五、九七、一〇四、一〇七号。


小作料を引き下げた大地主

稲村武明


 一八八八年、天城町松原生れ、一九六五年没。一九二二年(大正十一年)鹿児島県大島支庁では「大島郡大地主土地経営調べ」をしたがこれによると稲村の所有土地は、三五町二反余で小作人数は 二一二人となっている。徳之島の大地主は小作料を地主七割、小作人三割とし、高利で金を貸し付け自分の財産を増やす競争に明け暮れていた。毎年、やってくる台風や旱魃という天災でも小作料の 減免はしなかった。

 土地問題による殺傷事件や、小作人の本土への夜逃げも相次ぐ時代であったが稲村は異なっていた。天災の時は、小作料を二〇%〜二〇%引き下げ、小作人返上の土地六反を無償で貸し付けたりし た。

 小作人夫婦を岡前の浜に集め、酒肴を用意、飲めや歌えの宴会も開催した。伊仙村の五〇町歩以上所有の大地主もこれをまねて小作人にご馳走をしたという記録がある。小作料の減免は、減少する 小作労働の確保にも通じるものであったとも言う。

 稲村は大正十二年に松原郵便局開設のため、敷地、局舎、五年間の維持費を寄付、局長に就任した。

 藩政時代地主たちは、自己の財産を公共のために先を争い放出した。それは、郷士となるためのものであった。

 明治以降は公共のため私財放出者は消えた。その中で稲村の行動は先駆的なもの言えよう。

 《参考文献》「徳州新聞」一九八二年六月二一日。


社会党都会議員十七年間

稲村明喜


 一九〇五年徳之島松原生れ。一九七九年没、日本社会党東京都議会議員、労働運動家。阿布木名小学校を卒業して一九二三年に東京に出た。郵政省貯金局で簡易保険の外交員から正田飛行機製作所 で航空機製造に従事、三六年(昭和十一年)から三鷹で生活するようになる。

 終戦後、いち早く労働組合を結成、委員長として失業状態にある組合員の生活を守るために努力、総評傘下の全国金属労組東京地評本部委員長、東京地方労組評議会副議長など勤め、労働争議を指 導した。

 五五年、社会党左派公認として三鷹市から都議会議員に立候補した。定員は一名で社会党右派公認が当選、稲村は五一四六票で三位となった。この年は荒川区から龍郷出身の柳田豊茂(一九〇四年 生れ)も右派から当選した。

 稲村は四年後、共産党との統一候補として出馬当選、以来十七年間、都議会議員として社会党の政策審議室室長など勤め、六七年初めて実現した美濃部革新都政の中心人物として活躍した。

 温厚な風格の持ち主だが争議では一歩も引くことはなかった。東亜燃料工業が、宇検村技手久島に石油基地の建設計画を発表した時、水俣公害の二の舞いを島に絶対持ち込ますなと反対運動を積極 的に支援した。民間労組出身都会議員の奄美人一号。

 《参考文献》「道之島通信」三八号、六一号。重信健二郎『奄美の人々』関東編、全日興信所。「東京都都議会議員選挙の記録」東京都選挙管理委員会発行。


砂糖きび品種改良先駆者

乾純之助


 一九〇一年、徳之島花徳生れ。一九八七年没。農業振興功労者、大和製糖、天川酒造社長。戦後、製糖に一大革新をもたらした砂糖きびの新品種「NCO31O号記念碑」が徳之島花徳にあり、そ の功労者として乾純之助の名が刻まれている。

 砂糖生産を大幅に向上させた新品種は、一九四四年、インドのコンバトレーで交配されアフリカのナタールで育成されたため地名を取って命名された。琉球政府がこれを取り寄せ数年かけて育成、五 七年十一月に奨励品種となった。在来のきびに比べて糖度、反収が高く病害にも強いのでこれの普及で製糖業は戦後の黄金時代を築いた。

 乾は、三七年から八重山の製糖工場で働いていたが奄美の日本復帰後徳之島に帰り、天川酒造と大和製糖を設立していた。NCOの苗を五七年に沖縄の農事試験場から分けてもらい花徳に移植した。

 一町二反歩の原苗園をつくり、三年かけて栽培、苗を農民に無償配布した。記念碑は元大和製糖従業員、花徳区民、青年団などが建てた。政治家や役人の胸像建立は多いが農業功労者の顕彰碑は珍 しい。七四年、奄美群島農業祭で農業振興功労賞、八二年南海文化賞が贈られた。

 《参考資料》『徳之島郷土研究会報』十三号。


国策統合の大島日報社長

内山尚忠


 一八八三年、徳之島花徳生れ、一九四二年没。早稲田大学専門部商科卒、大島新聞創刊者。一九一五年、三二歳で県会議員に当選。新聞の持つ社会的役割に就いて研究、生涯を新聞作りに賭ける決 意をした。

 その勉強のため「大島日報」の営業部長となった。この新聞は月十四回の発行で、徳之島亀津出身の肥後憲一が社長をしておりスポンサーは祷苗代代議士であった。

 一九二九年、自分で大島時事新報を買収して「大島新聞」と改題、旬刊発行でスタート、三二年に月十四、三四年には隔日刊として目的を達成した。

 当初の編集者は坂井友直、河野友栄。後に新天領が入社。一九三九年、国策で大島郡の新聞雑誌は統合し、「大島日報」一紙となった。社長内山尚忠、副社長隆義心、編集人肥後吉次、記者小林正秀。

 内山が奄美の新聞戦国時代から、国策新聞時代を通じ、十五年間に直接、間接的に育てた徳之島出身の新聞人は、数多く坂井友直、肥後吉次、小林正秀など戦前、戦後を通じて長く奄美の新聞界で 活躍した。内山家のルーツは、奥山八郎ら同根の薩摩藩士と言う。

 《参考文献》「徳之島新聞」(本社大阪市)九五年六月十日号『改定名瀬市誌』2巻、名瀬市発行。


キリスト教の牧師第一号

大保富哉


 一八六五年、徳之島亀津生れ、一九四五年没。キリスト教牧師徳之島人第一号。富哉は、少年時代から文字が読める家庭に育ったので役場で働くようになり島では中流の生活をしていたが酒好きで 家産のすべてを酒代に変えてしまった。

 一八八八年(明治二八年)島を捨てて東京に出た。埼玉県川越裁判所登記所の書記となったが酒びたりの生活は続いた。八九年、二五歳の時、日本を飛び出し世界放浪の旅を始めた。

 サンフランシスコの街頭で救世軍の説教を聞き教会に同行、泥まみれの過去を清算して宗教活動に身を捧げる決意をした。

 教徒として牧師としての修行をして九六年に沖縄に帰って来た。沖縄県庁病院の書記をしながら布教活動を続けた。県は布教活動を止めるように迫り、四五円の月給を三五円に下げたりして来たが 屈しなかった。

 布教活動は大きな成果をあげ、地位も沖縄教会副会長に昇進した。歴史的に記録される成果に二人の若者を本土に留学させた事がある。その一人に沖縄一中の秀才で徳之島出身の、徳憲義を関西学 院神学部留学がある。

 徳は後にアメリカにも留学し、ロサンゼルスの牧師として活動したり日本では著名な牧師と活躍、東京で下落合教会を設立した。

 一九〇九年、牧師として徳之島に出張して布教、三年後ハワイに渡り日系移民の布教を十年間続けた。

 《参考文献》『徳之島亀津教会史資料』日本キリスト教団徳之島伝導所刊、徳之島の先人を偲ぶ会復刻。「徳之島新聞」本社大阪市(九八年一月十日号)


自伝『百年のあゆみ』刊

岡村千代


 一八八九年、徳之島岡前川津辺生れ、父富信、母なしりの長女。一九九三年、一〇四歳で没。一九八九年九月『百年のあゆみ』という自分史をまとめた。奄美の女性で百歳以上生きた人は居るが、自 らの人生史を残したのは初めて。

 この記録は「明日はきっと良いことがあるだろう」と信じて生きた庶民史でもある。A五判、一四四頁のこの本には、挿絵、写真などもあり明治、大正、昭和、平成の四代について大変貴重な証言 で民俗資料である。

 出生届は十四歳の時提出、高等小学校の月謝が三五銭、十五歳の時徳之島亀津にライオン、像、キリン、熊、カンガルーなどが来たので二〇銭を持って二四キロの道を歩いて見に行き十銭を落とし 先生から貰ったことなど、島の記録に無い証言がある。

 二十四歳で結婚、八人の子供を産み、二一人の大家族の世話をする。不作の年、籾米百斤を借りたら三十斤が利息として前払いさせられた。小さな店を出して、たばこ、食料品、衣類、日用品の仕 入れ販売、家畜、家族の世話など朝四時半から働き通しの生活、戦争中の軍事作業、空襲、終戦なども詳しく書かれている。この本は、国会図書館に納本されており閲覧出来る。

 七〇歳の時、すべてを処分、東京に移住。八六年の米寿の祝いは全国から一五〇人が参加した。長男、賢二が農林省を定年になったので八四年に再び島に戻った。二七年ぶりであった。孫娘の夫、矢 野ゆたか(共産党狛江市長)も、第二の故郷として度々徳之島を訪問している。

 


反権力哲学貫徹の弁護士

奥山八郎


 一八八七年亀津生れ、一九六七年東京没。元日本弁護士会連合会会長、東京奄美会会長、復帰対策委員長、復興対策委員会委員長、勲一等瑞褒章受賞、名瀬市、徳之島町名誉町民。

 「弁護士と言う職業は、常に野にあって権力を批判、その乱用を防止することにある」との哲学を持ちその実践に生涯をかけた。復帰運動の打ち合わせの帰路、青年学生を連れて、屋台ののれんをく ぐる庶民派でもあった。この人が東大卒の弁護士と聞いて驚くものもいた。

 一九〇二年(明治三五年)上京、働きながら中学を出て熊本の五島から東大法科に進学卒業、アルバイトで学資を稼ぎながらの学業であり、庶民性を失わず、人々に慕われるのはこの様な苦難の人 生体験のためであろう。

 一九二〇年、裁判所判事を退職、弁護士に転身。途中兵隊にも取られ、上官から軍人の道を進められたが、軍人嫌いのため断り、陸軍伍長で退役した。

 扱った弁護活動は、歴史上有名な反権力事件が多い。五一五事件、神兵隊事件、東大教授グループ事件などがあり、戦後の極東軍事裁判では、永野終身大将A級戦犯の弁護人ともなった。

 一九四六年、東京奄美会会長の泉二新熊が公職追放となり、跡を継いで第五代会長に就任、日本復帰対策全国委員長として復帰運動に専心、復帰後は、復興促進会会長として奄美の振興に努力した。

 「私の祖先は海賊だよ」と笑い飛ばす先人でもあり、右から左までその交友も有名な話し。タネ夫人の義理の甥が共産党書記長をした徳田球一であり、奥山家で二人は良く飲んだ。勲一等の勲章は徳 之島高校に寄贈した。墓は逗子市の妙光寺にあり、タネ夫人の実家、鹿児島の太原家の墓も共にある。

 《参考文献》『改定名瀬市誌』2、「道之島通信」五一号、一四六号。


復帰運動での三羽ガラス

勝 友武


 一九一〇年、徳之島阿権生れ、父萬行、母こひ長男。一九七〇年没。奄美大島日本復帰対策全国委員会常任委員、富士工業(株)社長。晩年智達と改名。

 奄美大島の日本復帰運動から復興運動にかけて三人の実業人が東京で一致団結不眠不休、私財を投じて運動を支えた。これを三羽カラスと言った。勝と大山迪充(住用)、川畑清(笠利)である。

 大正時代から昭和初期の頃まで徳之島農民の戸籍は適当なもので、生れても死んでも役場に届けないものが多かった。友武も十歳の時に弟と一緒に出生届けを出した。学校を卒業する頃先生に進め られて届けたと言うのもあった。

 島で小学校を卒業、大阪に出て働いていたが、東京に行き学校を出て弁護士になろうと決意して上京した。中央大学専門部法科に入学したが、仕事もなく毎日の食事にも事欠き自らの不運を嘆き大 学の門前で泣いていたと日記に書いてある。一九三三年、大学を諦め商人になるため国際通運の営業部に入り、大いに実績をあげて人生に希望を見いだした。

 戦後、奄美連合支部役員として杉並区の区議会議員に立候補したが定員五〇人の所、得票は九〇位に終わった。三菱銀行と提携で始めた不動産業が大当たりした。稼いだ金は借しみ無く復帰運動 や後輩の育成に投じた。

 復帰運動の陳情やあらゆる集会の台所は三羽カラスが支えた。復帰後は、島の小学校に対して教材を寄付、阿権小学校には「勝友園」という農園も寄付、現在も活用されている。六二年、東京阿権 会結成、会長就任。

 《参考文献》「道之島通信」七八号。『勝友武追悼集』東京阿権会、『郷土の先人に学ぶ』第四集、同刊行会発行。村山家国『奄美復帰史』南海日日新聞社。


激戦下徳之島の日記公刊

勝 元清


 一八九七年、徳之島亀津九三二番地で、元三の長男として生れる。一九七九年没。二十六年間亀津郵便局長。

 戦争中、徳之島には奄美守備隊が配置され、米軍の空襲や、近海における日本船の撃沈、守備隊の動きなど一切極秘とされて来た。

 元清は、克明な日記を付けており、戦争中の徳之島の空襲被害、逼迫した食糧事情、守備隊の行動、島民への命令などを知る記録は、この日記以外に無く、島の歴史は闇の中にあった。

 徳之島郷土研究会が結成され会員として元清は、自分の日記を進んで公表した。これによって初めて激戦下の徳之島がどうなっていたかについて知ることが可能となり、その発表は大きな反響を呼 んだ。

 一九八四年八月に『私の回顧録―日記抄』と題してこの日記が単行本になった(四六判、三六四夏、自家判)。この記録には戦争中以外のことも収録されていて郷土史研究には一級の資料となってい る。

 学校教育の歩み、特定郵便局の歴史、亀津商店の始まり、料理屋、飲食店、旅館、名手の持ち主などもある。商店の歴史は、大阪商人、長崎商人などの活躍、大島紬工場、酒造業など明治から今日 まで克明な記録である。巻末に勝家の系図があり六代に渡り記録されている。

 徳之島の戦争中のことについてはまだ不明な事が多い。奄美守備隊の現地召集者には鉄砲も帯剣もなく一銭の給与も支給されず、ただ穴掘り専門のものもあった。

 戦争遺跡についてなんの調査も保存策も論じられておらず、本土に比べ大幅に遅れている。元清日記の研究とあわせて戦争中の研究と証言記録が期待されている。

 日記の序文に龍野定一は「元清君おめでとう。一二〇歳、一三〇歳まで長生きし、郷里の名誉と幸福のためつくそうではないか」と書いてある。


若年労働者の研究で著作

桂 稔


 ペンネーム太郎、田村ひろし。一九二六年、徳之島面縄二世として東京生れ。五人兄弟の長男、青山師範中退。一九九七年没。父敏忠は警視庁から都庁財務局に移り自宅では(世田谷区若林町二〇) 質屋も経営。

 一九四五年、都庁労働局に就職したが一九五〇年、レッドパージ(共産党員とその同調者追放令)となった。一九五一年、奄美日本復帰青年会結成に参加。書記長として数か月間日本復帰運動で活 躍した。

 六五年、日本通信工業工員寮の寮長となり若年労働者の研究に取り組む。金の卵と言われた若年労働者が現代の女工哀史となって行く姿を七一年、日本テレビのドキュメンタリー番組「げんこつの 穴」で描いた。

 東京女子医大宿舎の管理人をしながら萩本欣一のユーモアクラブに参加したり、ビデオの制作も行い「雑草は生きている」という作品は、一九八三年十二月二五日、朝日新聞社のコンテストで佳作 に選ばれた。

 著書に、一九七〇年、日本青春出版社刊『コンベヤと青春、働く若者への手紙』「田村ひろし」のペンネーム。結婚司会業の本(桂太郎)他がある。徳之島新聞の東京支局長も無賃で引き受けた。

 《参考文献》『エコノミスト』(一九八三年十月二五日)毎日新聞社発行。「道之島通信」一四四号。


摂津市で郷土新聞を発行

角島直門


 一九二〇年徳之島検福生れ。鹿南太陽新聞編集発行人。十六歳で大阪へ出て大阪市立商業青年学校、大阪薬種学校を卒業、阪急電鉄を経て四七年に尼崎市巡査を退官、尼崎市で結成された奄美連名 の結成に参加、クリーニング店や薬局で働く一方日本復帰運動に専心した。

 日刊工業新聞阪神支局長も引受けマスコミについて学んだ。七二年十月に鹿南太陽新聞を摂津市で創刊、題名は鹿児島県の太陽国体にちなんだもので関西在住奄美人の動向を伝える郷土新聞で月刊 から旬刊とし九八年十月まで二六年間八五二号を発行して記録を後世に残した。

 関西奄美会広報部長、北摂伊仙町会長、尼崎市教育委員、南京都学園理事、PTA会長など奉仕活動も活発に行った。その他各種の文化活動をしているが特筆される物として次のようなものがある。

 七六年世界婦人年間の年に関西奄美会は三人の活動家を表彰したが、その推薦選考に当たった。表彰者は、美延よし大阪市議、林雅代兵庫県議、古川フミ尼崎小学校長。

 兵庫県猪名川霊園に奄美墓地建設を呼び掛け百人余りで建設、そてつを植樹した。また、大阪にあった原野農芸博物館(原野喜一郎理事長)を佐用村山間に誘致、奄美文化財団を発足させた影の功 労者。

 《参考文献》月刊奄美(九九年一月十日)『大奄美紳士録』八六年奄美社刊。


村誌発行一号の伊仙村長

叶 實統


 一八九〇、徳之島伊仙生れ。父為啓、母よね長男。一九六一年没。祖先は首里之主一統。県立大島農学校を卒業、一九一四年、教員となり面縄小、花徳小などに勤めた。二〇年、島尻村会議員とな り、二七年に県会議員、三三年に伊仙村長に当選した。六一年、伊仙町議会は顕彰碑建立を決議、翌年役場敷地に建てた。

 伊仙村に残した足跡で最大のものは、三三年、村長時代に徳之島で始めて村の歴史の記録を残した事だろう。『更生の伊仙村誌』発行に当たって「一本の木を植える時は、枝葉は切り捨てても根は絶 対大切にしなければならない。すべての生命の伸展は過去生命の土台を離れることは出来ない。政治も学問もすべて同じである」と先人の足跡に学ぶよう訴えている。

 一九二一年、島尻村の名称を伊仙村に変えた時の提案者でもあり、農会長、畜産会長なども歴任、鹿浦、亀津間の県道建設などにも貢献した。役場に戸籍謄本の請求に来た学生に対して自分で写す よう勧め代金は無料にしたエピソードがある。

 戦後、平山源宝青年団長との選挙抗争は有名である。村役場主催の村葬第一号も記録されている。

 《参考文献》坂井友直『奄美郷土史選集』1(更生の伊仙村誌)国書刊行会。『伊仙町誌』伊仙町。『郷土の先人に学ぶ』同刊行会、「道之島通信」三七号。


国産ロープウェイ開発者

川浪知熊


 一八九〇年、徳之島亀津生れ、父伊地知徳健、母かな二男。幼名は熊。一九〇七年東京で没。祖先は薩摩藩士。佐賀県士族川浪虎太郎の娘マサの婿養子となり改名。

 神戸六甲山で国産第一号のロープウェイを建設した技術者。一九一七年、京大工学部土木科を卒業した知熊は、阪急の総帥、小林一三に見込まれて大阪市技師から阪急に移っていた。

 住宅と鉄道、百貨店、レジャーのセット経営を日本で初めて考案した小林は、六甲山(九三一メートル)に、ロープウェイを建設し、山頂に公園やホテルなどレジャー施設を建設。この山を夢のオ アシスに変えようとの計画を持っていた。

 一九三〇年、ロープウェイ建設が始まり、知熊はその責任者に任命された。ライバルの阪神グループもイタリヤ人技師を雇い設計に入っており、日本人の技術ではとても無理とイタリヤ人は笑って いた。

 知熊は、阪急入社以来調査研究を続けており一〇〇%の確信で工事を進め、三一年九月、工事開始後一年で完成開通させた。一六〇〇メートル、七分で客を運んだ。国産第一号ロープウェイであ り連日満員のブームで六甲は全国的に有名になった。阪神も六か月遅れて完成させた。

 三八年、大風水害で破壊され復旧しないまま戦争のため軍部から鉄材供出を命じられ接収された。戦争中、東京多摩地区の軍需物資石灰岩運送のロープウェイを建設を担当した。

 戦後、北海道函館山のロープウェイも設計、函館山の名所作りに貢献したが、知る人は少ない。墓が東京都秋川市の興福寺にある。

 《参考文献》「道之島通信」二一八号。


戦前の勲一等徳之島一号

川村直岡


 一八九二年、徳之島岡前川津辺生れ、一九六三年没。父、池富、母メンダ、男四人、女四人兄弟の末子。東大卒、台湾総督府知事、シンガポール方面司政長官、正三位勲一等瑞宝章受賞、勲一等の 叙勲者は徳之島人として第一号でもある。

 島の小学校を出て役場で働きながら教員の検定試験に合格、犬田布、喜界などで教員をしていたが、向学の志止み難く兄鍋太郎を頼って上京、私立の東京中学校、一高を径て一九一九年、東大を卒 業、内務省に入った。

 二一年、志願して台湾総督府に出向、四四年、日本軍の司政長官としてシンガポールに転出するまで、台南省、台北省の知事など役人として活躍した。

 植民地の日本人は肩で風を切り現地住民を虫けら扱いにして戦後報復を受けたものもいたが、川村は部下に対して島民の差別を固く禁じた。運河やダムを作り農業の振興を図った。

 薩摩藩は藩の費用で奄美にダムひとつ建設することはなかった。それに比べて日本の台湾統治は米と砂糖の増産に力を入れた。砂糖きびの反収は十二トン目標であったというから現代の奄美の目標 八トンを大きく上回っている。

 川村が生れ育った岡前は、鼻歌で「たーぶく(田袋)のきゅらさや岡前たーふく」と歌われた徳之島での美田地帯でもあり、第二の岡前たーぶく建設を台湾で試みたのだろうか。台湾がアジア地域 で高い水準の成長を現在続けているのは農業基盤整備が進んでいたからとも言われている。

 若い人に対して「杭になれ」自分を犠牲にして社会に役立つ人間になれ「道端に咲く花を折り独り占めにし大勢の人の楽しみを奪うような人になるな」「人に愛される人間になれ」と諭した。杭にな るため四九年、参議院選挙に出馬したが病気になり取り止めた。奄美の日本復帰運動や復興運動にも積極的に参加した。

 《参考文献》『郷土の先人に学ぶ』第四集。村山家国『奄美復帰史』南海日日新聞社、自著『社会思想』


七高の元応援団長で名声

神田善一郎


 一九〇四年、徳之島町布木多生れ。一九七七年没。鹿児島県社会教育主事、天城町二代目町長。島の小学校から志布志中学、七高、京大へと進む。家庭の都合で京大を中退。軍隊で砲兵少尉となり、 除隊後教職から県社会教育主事として活躍。

 大正末、七高と、熊本の五高との野球試合や陸上競技に七高応援団長として活躍した。五高の応援団長は同じ徳之島阿権出身であり全九州で人気を博し、何時までも語り草として残った。

 終戦後、熊毛教育事務所所長として活躍、青年団、婦人余、PTAなどの育成、民主主義と村起し運動など新時代のスタートを指導、県下では、異色な人材として注目を浴びた。

 一九六一年、天城町が誕生した。六二年に町長に当選、三期十二年間勤めた。町としては初めての事が多く各種条例制定や、振興基本計画など作成した。七四年七月八日本工業立地センターと極秘 に結んだエネルギー関係研究所の立地調査が核燃料再処理工場用地(MA―T計画)と後で判明、全島から批判された。

 鹿児島商業高校を天城に誘致したその功績は戦後天城の町村長の業績中特筆される。

 《参考文献》坂井友直『奄美郷土史選集』二巻、国書刊行会刊。『郷土人系』中、南日本新聞社。『鹿児島県姓氏家系大辞典』角川書店。南海日日新聞(昭和五一年九月二八日)


文学博士奄美人で第一号

上村清延


 一八七九年、徳之島亀津生れ、一九五七年没。清原の長男、二男六女の兄弟、ドイツ文学者、大学教授、文学博士。祖先は薩摩藩の藩医。

 一八九三年、十五歳で徳之島を後にする。鹿児島一中、一高を径て一九〇七年、東大を卒業。ドイツ文学研究一途に専心、一高、七高、海大、浦和高校、埼玉大、駒沢大などの教授としてドイツ文 学を教えた。著書の文法教科書は「上村文法」として長く学生のバイブルとなった。四三年にドイツ文学と東洋についての研究で文学博士となった。文学博士号は奄美人では第一号。関東徳州会会長 などもする。

 東大の級友、吹田順助は著書『旅人の夜の歌』に八千字余の上村追悼記を書いた。上村について吹田は「ぶっきらぼうな外観だがその底に細かい思いやりがあった」「他の道に草花が咲き乱れ心が惹 かれる時でもそれには目もくれず最初に決めた道を進んで行った」「一つの研究を始めると小器用にやってのけるというようなことはしないで根本的に隅の隅まで突っ込んで行く」「マスコミを利用売 名行為をしない」等細かく紹介している。

 高校時代に、小山内薫ら七人の仲間と劇作研究に熱中、同人誌も発行した。シナリオに島口が出て来て何回も修正を求められたという記録もある。源頼朝の史劇を考案、頼朝は義経に比べて政治家 として卓越していたと書いた。著書『ドイツ文学と東洋』郁文堂出版、訳詞『ゲオルゲ第七輪』など。

 《参考文献》「道之島通信」五七号、『ブルンメン』三三号、すいた順助(自伝)『旅人の夜の歌』講談社。


柔道の普及発展で表彰状

喜島喜輝


 一八九六年、徳之島松原生れ。没年不明。父喜久澄、母ミヨ長男、島で小学校高等科を卒業、生まれつき体力に恵まれていて相撲大会では連戦連勝を重ねた。徴兵検査で甲種合格、熊本大師団に入 隊。一九二〇年除隊、台湾の巡査となり渡台する。巡査時代に加藤国武四段に柔道を習いその熱心さで上達も早く、全島の警察対抗試合で七戦七勝、二四年初段黒帯となり講道館入門、三〇年に台湾 の警察代表として京都の全国大会に出場、徳之島の先輩、講道館の四天王徳三宝に対面激励を受ける。

 三四年、徳が台湾に来たたので宿舎を尋ねて一夜を語り合って感動、益々技術の練磨に励んだ。同年五段、農業学校、中学校の柔道教師、四〇年に警察を退職、巡回指導教師を専業とした。

 一九四一年、六段昇段、四六年四月すべて失い東京に引揚げ、世田谷区の六畳一間で七人家族の生活を始めた。四七年柔道が復活、接骨院開業、世田谷区柔道会常任理事となる。五二年に等々力に 喜島柔道場を開設、六五年七月一日半蔵門会館で八段昇格祝いを開催。徳之島の先輩奥山八郎、龍野定一らも駆け付けて祝辞を述べた。

 八四年の講道館創立百周年で柔道の普及発展功労者として表彰される。帝国日本の最先端でもある植民地警察官でありながら戦後も台湾の門下生から招待を受けるなど慕われているのは人種を差別 しない人間関係を築いて来た結果とも言えよう。

 《参考文献》『米寿を迎えて』八四年、三男、展義発行。徳之島松原には記念碑もある。


三方法運動史の記録を伝承

窪田喜忠


 一八六八年生れ、西阿木名の喜祐厚三男として生れ、一八八二年(明治十五年)平福世喜の娘婿として阿権に移住し阿権窪田家の始祖となる。一九三八年没。ルーツは首里の主一統。

 一八八八年、奄美群島民は、鹿児島商人の高利負債に苦しめられていた。商取引と通貨を禁じられていた島でも明治になり初めて取引が認められた。鹿児島商人は黒糖買取りのため競って島にやっ て来た。斧一つの代金(原価七八銭)が砂糖換算で十斤、これの支払いが遅延すると十年後には一〇九九斤七合の砂糖になるという高利を鹿児島商人は勝手に設定、金や日用品を前貸し証文を作成し た。風災害で不払いが出来ない島民が増加した。

 その負債総額は年間の産糖を凌ぐ五〇万円に達した。この地獄から脱出のため三方法運動が展開された。奄美人が大和のトノガナシ相手に闘った史上初の自由民権運動でもあった。この運動につい て記録がなく、島の歴史は憶測で書かれて来た。一九九八年三月十五日発行の「道之島通信」が阿権窪田家文書を発表した。この文書によって初めて三方法運動の史実が明らかになった。

 この文書は、喜忠が、一九三五年に孫の忠儀に命じて筆写させたものであった。この文書がなかったら祖先の血のにじむような運動も伝わる事なく闇に消えたことであろう。喜忠の炯眼に敬服し保 存して来た窪田家に感謝したい。

 喜忠は、この運動に直接参加し、初代福世喜を助け糖業革新に努力した。一九〇七年には県会議員に当選。子供達には「学問をしてそれを社会のために生かして欲しい。必ずしも島に戻る必要はな い」と話していた。

 《参考文献》「道之島通信」一四四号。


明治二四年招請の教育者

後醍院良季


 一八六〇年生れ、一九三〇年没。鹿児島藩士、真柱四男、徳之島西縄で明治初期私塾開設者。父は平田篤胤門下の国学者、七高の教授。

 一九八一年、鹿児島師範学校第四回卒業、日置郡や桜島の小学校で教師をする。一八九一年、徳之島面縄有志の招請が大島島庁を通じてあり、県学務課も赴任を要請して来たので七月六日、朝日丸 で徳之島に出発した。

 以来、四三年間、鹿児島に戻ることなく、私塾を経営、簡易小学校長など勤め人材育成に貢献した。門下生には村長、校長、東京の警察署長、弁護士などが輩出した。

 九二年(明治二五年)、役場に提出した提言が残されている。「高尚な学問を教える時でなく、一人残らず男女差別なく、倫常を明らかにし、勤勉、節約、忍耐、貯蓄の美俗をなす基礎を作り労役を いとわず職業に励む人作りが必要である」と島の現状分析も緻密であった。全島から門下生が集まり塾は栄えた。

 一九六三年、面縄の土になった先覚者に感謝の意を現す地元の墓前祭が行われた。稲田敏夫伊仙町教育長らが世話人となった。明治初期、各地で鹿児島から教師を招いて島の子弟教育に当たらせた が、この様な教師の事例は珍しく後醍院の人徳の高さが偲ばれる。

 《参考文献》『伊仙町誌』伊仙町刊。泉信喬『後醍院良季先生について』非売品。


鹿児島人の大島観変更を

小林三郎


 一八八三年、天城町岡前生れ、一九六八年没。小林義志孝の二男。祖先は宮崎県の郷士。貧乏なため進学できず早稲田大学の講義録で勉強、一九〇四年、与名間小学校代用教員となり学資を貯めて 上京、七年、早稲田大学専門部入学、二年後に普通文官試験に合格、警視庁入。福岡、埼玉、東京で警察署長、警視庁特高係長に昇進。

 一九二九年、内務省令で明治以来奄美人に堅く門戸を閉じて大島支庁長に就任、県では知事以外はすべてが反対した。県は沖縄で成功した砂糖きびの新種「タイケイ種」の奄美導入を禁じていたが、 県の命令を無視、これを導入収穫を数倍化した。台風前刈り入れ可能な稲の品種研究、二字姓奨励、奄美高女の県立昇格など小林支庁長は割目すべき業績を残した。三六年(昭和十一年)衆議院選挙 に鹿児島三区から出馬当選、立憲民政党、当選二回。

 「大島が鹿児島県に所属している限り発展はない。独立するか、沖縄県に所属した方が大成可能、知事がいくら変わっても鹿児島人の大島観を変えない限りだめだ」一九三二年三月号の郷土誌「奄美」 に書いている。歴史的卓見でもある。代議士をやめてからは、日常務など実業界で活躍。

 《参考文献》『議会制度七十年史衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局発行(この本には本籍東京とある)『郷土の先人に学ぶ』上、「奄美」(一九三二年三月一日号)「島興し通信」四九号。


徳之島で新聞発行第一号

小林正秀


 一九〇三年、徳之島岡前生れ、一九九〇年没。ルーツは宮崎の郷士。島の新聞記者、郷土史研究家、京都中学率、警視庁、東京府庁勤務。一九三六年、大島新聞記者となる。

 以後、鹿児島日報大島支社、四六年、奄美タイムス主筆、五三年、徳之島で南西日報(徳州新聞に改題)を発行。八三年、道山俊男氏に売却、大分市に移住するまで四六年間、記者として書き続け た。島のマスコミでこれほど長期間活動したのは例がない。

 徳之島郷土研究会会長、文化協会会長、『天城町誌』編集長、などもして徳之島の文化発展に大きな足跡を残した。徳州新聞に、藩政時代の古文書を解読連載した。「犬田布騒動」「仲為日記」「道統 日記」他、藩政時代の新記録を数多く発掘したこと功績も大きい。 著書『徳之島概説史』『犬田布騒動』『徳之島の伝説』『徳之島の年中行事』『西郷隆盛』他。

 《参考文献》「徳州新聞」(八二年十月十四日)「私の回顧録、奄美ジャーナリズムの歩み」を連載。

 遺族が文献、資料一切を徳之島中央公民館に寄贈、小林文庫が作られている。一九七六年に起きた「徳之島核燃料再処理工場建設計画反対運動」で果たした「徳州新聞」の役割は大変なものがある。 これらを含めて徳之島の戦後史の研究資料としてその記録は今後益々貴重なものになるだろう。


軍部の圧迫に不屈の牧師

小沼大平(松本)


 一九六九年生れ、一九四五年没。日本キリスト教会亀津教会(旧日本メソジスト教会)三代目牧師。茨城県潮来町水原生れ、父九十九、母てつ。幼少の頃親威の松本家に養子となり一時松本姓を名 乗る。

 ギリシャ正教会ニコライ神学校に学び、一九〇八年、北海道岩内町岩ケ嶺正教会司祭を勤める。著名なキリスト教社会主義者、内村鑑三や本間俊兵らと交流した。内村は教育勅語に敬礼不足として 不敬罪で教職を追われ「万朝報」の記者となり足尾銅山の公害反対や日露戦争で非戦論を展開、幸徳秋水らと理想団を結成した。『無教会』を発行、洗礼や協会不要の伝導を呼び掛けるなどの活動家で もあった。

 戦争の激化と共に軍部は、キリスト教は敵国思想で、牧師はスパイだと宣伝した。徳之島でも圧迫がひどく平土野の医師武原嘉豊方に「天城独立伝導所」を造り小沼は避難した。武原に内村を紹介、 二人の文通が行われ武原は内村を敬慕した。

 名瀬では町議会や新聞社が古仁屋要塞司令部と組んでカソリック排撃運動を展開、女学校を閉鎖に追い込んだ。この暴挙の先導役が徳之島出身の新聞記者たちであった。

 どんな圧迫にも屈せず信仰の自由を守り抜き終戦の半年前に好きな徳之島で没した。

 《参考文献》『徳之島亀津教会吏資料』日本キリスト教会徳之島伝導所刊。


西南の役敗残の開業医師

是枝孝太郎


 一八五五年、鹿児島市生れ、一九一九年没、明治初期、徳之島医術開業免許第一号。父隆悦、母おくま三男。代 々医術の家柄であり父から医術について学んだ。

 父は、一八六四年に藩から派遣されて井之川で開業していた。手当てが米四十石(全額島民の負担)というから大変な高給であった(島の与人役が十三石)。糸木名、犬田布、阿権、伊仙の各村に対 して是枝医師の手当て供出高の記録がある。

 二代目孝太郎医師は、西南の役で西郷軍に参加負傷、姉と共に父が住んでいた井之川に落ち延びてきた。一年後に目手久に移り三八年間、医院を開業地域の島民の命を守り衛生改善に貢献した。鹿 児島の「トノガナシ」であり怖かったとも伝えられている。

 孫の豊正秀宅に明治十七年(一八八四年)発行の「内外科医術開業免状」が保存されている。鹿児島県士族、是枝孝太郎、安政二年一月二日生れに対するもので内務卿山懸有朋の名前がある。

 西南の役に従軍した西郷軍の多くは捕らえられ裁判で士籍剥奪や懲役刑に処せられたが、医師はお構いなしとされたのだろうか。徳之島には、官軍の逮捕を逃れて移住して来た者もいた。

 《参考文献》小林正秀解読『仲為日記』徳州新聞社、『伊仙町誌』伊仙町発行。『面縄の先人に学ぶ』面縄小学校発行。


郷土史書七冊を戦前公刊

坂井友直


 一八七五年、徳之島阿権生れ、一九四〇年没。士族。父福王、母かな長男、郷土史家。十一歳で父死別。旧姓栄、一九二四年改姓。始祖は一五五〇年に徳之島の大親(島主)として琉球王が派遣し た首里之主。

 鹿児島師範大農分教場卒。一八九〇年教員となる。教師生活を続けて行くうち、学校で徳之島の歴史を教えようとしても教材が皆無である事に気付いた。国に国史があるのと同様、島にも島史が必 要だと考え徳之島の歴史について教科書つくりをめざした。

 長い間、古老を尋ね、各家々に伝わる系図や古文書の書き写しを続け、一九一七年『徳之島小史』を遂に完成した。この本は南島の歴史研究には不可欠のバイブルとなった。

 一九二〇年に議会で選出される公選第一号の島尻村長となり、村名を伊仙村と改めた。二三年に県会議員に、また名瀬町会議員もした。名瀬に移ってからは新聞記者として活躍。

 村長や県会議員選挙で祖先伝来の資産は皆無になった、ルリカケスや黒兎など世界に誇れる資源を持ちながら島の誇りを自覚せず島の外に人材は流失するばかりであり、島を救うには郷土史が必要 だと確信、一切を郷土史発掘に集中した。沖永良部島史、喜界島史など七点の公刊書を相次いで発刊、最後の大著は戦争のため日の目を見ずに消えた。

 著書、『坂井友直奄美郷土史選集』第一巻、第二巻、国書刊行会。

 《参考文献》「道之島通信」七三号。『郷土の先人に学ぶ』続、同刊行会。『近代日本社会運動史人物大辞典』2、日外アソシエーツ刊、『郷土人系』上、南日本新聞社。


自然と共存の写真集発刊

坂井和夫


 一九三〇年名瀬市生れ。写真家。父坂井友直は徳之島生れの郷土史家、母ヨシは住用村出身。五〇年に那覇市役所に入り九一年退職、在職中から写真の勉強を続け退職後写真を専業とした。

 沖縄県島尻郡大里村居住「自然と共存とした人々に向き合うのが自分の性格にあっている」として国頭村奥集落の人達と暮らしについて撮り始めた。

 奥の集落は、昔からの山村のたたずまいを残し、人々の素朴さ、人情の豊かさを残した人口二〇〇人に満たない村で沖縄本島北部に位置しており、大里村からは二二〇キロ、車でも三時間の距離で ある。

 十年間通い続けて写した二万コマから二一四点を選び、九八年五月に写真集『奥の肖像』が発刊された。この写真集は村の人達の暮らしぶりを中心としたモノクロだが従来の写真集では見ることが 出来ないものがあるとして全国的に有名になった。お年寄りや子供達の生き生きとした屈託のない笑顔や自然体の姿が全作品に光っていると言う。カメラマンと村人たちのコミュニケーションが成立 していることの証明でもある。

 現地の新聞雑誌がこの無名写真家の作品に驚きの目で紹介、全国誌の『アサヒカメラ』も十一月号で特集、NHKは九八年八月二九日「小さな旅」の番組で奥の特集をした。どんな郷土史家も出来 なかった奥の広報と記録を歴史に残したその功績は大きい。

 《参考文献》「道之島通信」二二四号、一四五号。沖縄タイムス九八年四月二八日、六月十二日。琉球新報九五年六月十五日、九八年九月六日。


種子島育ちの熱血漢牧師

榮 義之


 一九四一年、種子島西之表生れ、生駒聖書学院院長、日本ペンテコステ宣教会牧師、徳之島阿権二世。

 一九九八年、マルコーシュ・パブリケーション社から義之牧師の著書『天の虫けら』と『希望の声』(二五年間続けた朝日放送ラジオメッセージ収録)が発刊され東京と大阪で出版祝賀会が開かれた。

 牧師の活動は国内だけでない。アフリカケニア共和国に孤児院を設立、毎年聖書学院の生徒とともに訪問したり、タイ国の少数民族カレン族への布教活動も続け、その記録を新聞雑誌などに発表し ている。このような活動は徳之島出身の牧師としては先駆的なものとして注目されている。

 『サバンナに愛の光り永遠に』という本に(東亮吉著一九九六年近代文芸社刊)赤貧洗うような牧師の生い立ちが紹介されている。また、『天の虫けら』には、貧しくて、暗くさびしく、絶望的な人 生が信仰と聖書によってどう変わっていったかが書かれていて体験記録だけに説得力に満ちている。榮家は、徳之島で藩政時代に薩摩藩主から郷士に取り立てられた琉球王家の子孫だが父徳哉(一九 九四年、九九歳召天)の代は貧困の中にあった。薩摩(大和)は、明治になり島に神社を建て拝むよう強制したが成功せず。新しい精神的支柱をキリストに求めるのが多く大島は日本一の不況地となっ た歴史がある。戦争中軍部に弾圧され戦後復活した。兄の一仰も大阪で牧師として活躍している。

 《参考文献》「道之島通信」一四四号、一四六号。


大阪で島関係の図書出版

作井 満(まん)


 一九四七年、徳之島伊他生れ、本名みつる。父哲二、母キクの次男。図書出版の海風社社長。伊仙町で中学を出て鹿児島へ、都立月山高校に転入卒業、法政大学中退。

 八〇年、図書出版の海風社を大阪で設立、新刊図書は三百点を越えた。出版史上奄美人として初の活動記録でもある。日本の出版界に欠如している抑圧されて来た者の真実の声を伝えるために「南 島叢書」を発行、それも百点に迫っている。

 「出版事業は一に、二に、三にも資金、後は倉庫」とは先人の教え。大部数を印刷する資金もないため初版千部を二年かけて売ったり苦労は絶えない。挫折して消えた先人の教訓に学びさえすれば、 誰もが果たし得なかった夢の金字塔を打ち立てることになるだろう。

 文化指数の高い島興しも提唱している。「住み良い地域の条件をつくるために、新聞や図書を読む慣習をどう築くか、民主主義の不毛、文化無視、金権主義を奄美から一掃して欲しい」とも書いてい る。

 著書、詩集『島酔記』『犬田布村騒動記』『南島文化論』など十数点の他評論など同人誌、個人誌に発表。南島、差別論を大学や大阪文学学校などで講義している。

 《参考文献》「島興し通信」十七号。「道之島通信」六一、八六、二一〇号。南海日日新聞、八一年十二月二五日。九一年九月十一日、産経新聞、九八年十一月二五日。


四六三頁の回顧録を発刊

重武克彦


 一九〇五年、徳之島伊仙生れ。一九九〇年没。父實世喜、母まつ三男。祖先は首里之主一統。旧姓重を三二年に重武に、旧名嘉玖郷を五三年に克彦に改めた。三方村村長、奄美大島日本復帰協議会 副議長、名瀬市旅館組合組合長。

 伊仙小学校、県立大島農学校卒業、県農業技手として大島農事試験場主任となる。志願して陸軍に入り中尉で除隊、戦争中は大政翼賛会大島壮年団副団長、名瀬守備隊長、三方村村長などを勤め軍 国日本の模範島民でもあった。

 戦後は奄美日本復帰協議会副議長として日本復帰運動に積極的に参加した。名瀬で旅館を経営同組合長、他各種団体の役員を兼務、名瀬の大久保彦左衛門と言われた。

 八四年に大阪の海風社から『回顧録』(A5判、四六三頁)を発 s。これには関係者多数が登場し歴史的にも貴重な資料となっている。三男の茂任(東京で会社経営)は、この回顧録を国会図書館 に納入、永久保存を計ると共に一般の閲覧に供している。

 八九年、五四年ぶりに伊仙にUターンしてみんなに祝福されたが一年余りで他界した。「無欲、世の中は成るようにしか成らない」が人生訓。

 《参考文献》村山家国『奄美復帰史』南海日日新聞社刊。「道之島通信」八七号、一二三号。


石油基地反対支援の役人

重田為良


 一九一四年、徳之島兼久生れ。父富徳、母カナ長男。三人兄弟、祖先は阿布木名で兼久から平土野に移転した。大島中学校、東京高蚕卒(現東京農工大)一九三九年、通産省工業技術院燃料研究所 に入り研究官として三九年間勤務。七八年退官の時は、公害資源研究所室長。

 日本工業規格石油試験方法専門委員会会長、環境庁大気規制委員などもしており環境汚染に対しては自然保護の立場を守る珍しい研究者。一九七三年、東亜燃料工業は、奄美大島技手久島に巨大な 石油基地の建設計画を発表した。東京や現地で反対運動が起きた。

 この会の趣意書に石油基地とはどういうものか世界の石油基地で発生している海洋汚染など公害の実情について重田研究官はB5判十六頁に及ぶ解説書を二回書いて反対運動を支援した(経済問題 の解説は一橋大学好見清光教授が担当)。

 通産省は業界利益を守る代表機関として知られており、重田論文に対して通産省幹部は石油業界の計画に異議を唱える重田に「君は共産党か」と質問して来た。「私は奄美出身、奄美党だ」と頑張っ た。七七年、関東天城町会幹事長の時、柔道界の巨星徳三宝の胸像を出生地である徳之島兼久に建立した。関東徳州会長、東京奄美会役員など歴任。現在、徳之島の先人を偲ぶ会世話人。「戦争中の研 究活動で成果のあったのは木炭自動車位のものでした」笑う。

 《参考文献》「道之島通信」一四〇号。『大奄美紳士録』奄美社、『徳三宝先生をしのぶ』関東徳州会発行。


伊仙町出身大学学長一号

重乃 皓(あきら)


 一九三〇年、徳之島伊仙町生れ。京都外国語大学学長。旧制大島中学校で英語に魅力を感じ、四八年卒業後専攻科に進み英語の勉強に取り組む。奄美はアメリカ軍政下にあって本土の大学進学は認 められず翻訳の仕事をしながら進学のチャンスを待った。

 五一年にガリオア資金(米国政府占領地域統治救済資金)による一年間のアメリカ留学が米国軍政府から認められた。この試験に合格、オハイオ州マスキンガム大学に留学、政治学を研究する。一 年はあっという間に過ぎてしまい折角なれてきて勉強にも熱が入っているのになんとか留学期間の延長は出来ないものかと嘆願して一年の延期を認めてもらった。二年が過ぎてから後一年で卒業だか らと再度嘆願認められ無事卒業した。

 帰国後、同志壮大学で英文学を専攻六二年に卒業、防衛庁事務官、京都アメリカ文化センターなどを経て八三年京都外大助教授、八六年教授となり、九八年七月学長に選出された。

 同大学は生徒数四千人、英語教育では有名校だが十八歳人口の減少で学校経営は全国的に危機にあり従来のやり方では生き残れない。アメリカ式経営に詳しい新学長の手腕が期待されている。苦し い時は島唄をうたいストゴレ根性を発揮すると言う。伊仙町長出身第一号学長の健闘を期待したい。 《参考文献》南日本新聞、九八年八月三〇日


密貿易で失脚の熱血村長

重村一郎


 一九二二年、徳之島花徳生れ。一九七六年自殺。東天城村長、県会議員、徳之島町名誉町民。一九三九年、鹿児島県立二中を卒業、鹿児島高等農林学校に進学したが奄美の日本分離で中退。徳之島 に帰り農業をしながら青年団活動に専心した。

 一九四七年七月、青年団長として村長選に立候補当選、弱冠二五歳の村長が徳之島で始めて出現した。戦後、旧体制を支えてきたリーダー達は「戦犯」の烙印をおされ沈黙していたので部落の治安、 娯楽、文化活動、本土並の民主化運動など青年団が仕切っていた。

 四八年十一月、母間小学校が火災で全焼した。重村村長は助役の直島秀良と相談、本土との交易を絶たれ島の倉庫に眠っている黒砂糖三万斤を運びだし、学校建築材に代えようと計画した。

 群島政府の木原隆良農務部長(徳之島出身)とも相談、肥後吉次所有の明栄丸(五〇トン)で悪石島に運び倉庫に入れた。密貿易は軍政違反であり取引は迅速が必要であった。しかし、二十日も待っ たが本土船は現れず木材入手は失敗、日用品と交換した。

 これを島の商店に卸しその代金を学校建設の資金とした。木材は島で調達して四九年一月校舎を完成した。続いて米軍作業衣の密輸出を計画したが失敗、政治問題となり八月に村長を辞任した。

 三〇年、県会議員に当選、二一年間、県会議員として活躍、自民党県連幹事長など勤める。健康を害し、自ら生命をたち波乱に満ちた人生を閉じた。

 《参考文献》『徳之島町誌』徳之島町発行、『鹿児島県姓氏家系大辞典』角川書店刊。道之島通信、一三三号。


鹿児島商人打破の指導者

平福世喜


 一八三六年、徳之島阿権生れ。一九〇二年没。父福憲、母乙津戸兼三男。三方法運動リーダー。鹿児島商人の独占を打破奄美から追放、糖業を革新した功労者。明治初期、大阪黒糖市場視察第一号。

 一八八八年、明治になって二一年、西郷派が全滅して十一年経過しても奄美ではまだ藩政時代と同様、黒糖売買の自由も認められず鹿児島商人が県の支援を受け五島の商権を独占、そのモラルに欠 けた非道の限りを尽くしていた。

 これを実力で打破するために立ち上がったのが福世喜らであった。徳之島滞在中の三重県人石井清吉を指導者に押し立て名瀬で全郡の代議員総会を開催「三方法運動」を全奄美に拡大して奄美を黒 糖地獄から救った。

 鹿児島商人は、茶一斤に対して黒糖十斤を要求していたが大阪商人は黒糖一斤で良い事もあって取引は自然に大阪方になびいて行った。黒糖市場がどうなっているのか、商取引とはどのようなもの かを学ぶため徳之島から三人が商取引視察委員に選ばれて、八八年に大阪に渡った。

 福世喜は、製糖を馬力から水車に変えたり、白糖製造を試みたり先見性に富んだ活動で業界革新を行った。子孫は蓄財に優れ群島屈指の富農となった。

 明治十年、丸田南里指導の「勝手世騒動」で多大な人的犠牲を出し、得る物がなかったことに比べて「三方法運動」の勝利は歴史的新評価を受けることになるだろう。

 《参考文献》「島興し通信」五八号。「道之島通信」一四四号。


無産運動で獄死の法学士

平 利文


 一九〇二年、徳之島阿権の大地主平恒孝の次男に生れ、一九四五年二月十三日、治安維持法違反で入獄中、小倉刑務所で獄死した。

 鹿児島一中、五高、二八年京大法学部卒、京大在学中、社会科学研究会学生連合会に参加逮捕。この会はマルクス主義を指導理念とし、無産階級解放運動の一翼として全国運動を目指していた。

 一九二八年十二月、名瀬市で地方無産党として結党された奄美新興同志会に参加(文英吉委員長)翌年八月、徳之島の岡前、九月に東天城と伊仙で支部の小作人組合を結成、小作料値下げ要求で地 主との団体交渉を指導した。

 当時、徳之島では、不当な小作料(地主七、小作人三)収奪と年三割の高利貸で稼いだ百町歩以上所有の大地主もいた。これらの子弟は金に任せて本土の著名大学に進学、蓄財と出世に血道をあげ ていた。無産者解放運動に生涯を捧げたのは利文だけであった。

 一九三〇年、産業労働調査所(野坂参三主宰)入所、三三年、京大時代の同志、清水省三、長谷川博(二人とも日共党員)らと生協の運動方針を協議、一三九円をカンパ。三七年、社会大衆党に 加入、そのファッショ化防止に努力。その後、国民運動研究会に加入、その進歩分子を結集、新日本建設青年同盟結成のため世話人となった。

 四二年十月、清水が北九州で逮捕され協力者の氏名を自供、四三年四月十日、利文ら四人が逮捕された。四五二月十三日、小倉刑務所で敗血症で死去。

 拷問による虐殺との疑問もある。遺体は処理され家族の対面も出来なかった。四八年三月十八日、東京青山墓地にある解放運動無名戦士の墓に合葬。墓参者が多く有名人墓地の一つとして花が絶え ない。

 《参考文献》『近代日本社会運動史人物大事典』日外アソシエーツ刊。「道之島通信」六六号他。


経営学の大学教授第一号

平 雅之


 一九三六年、徳之島阿権生れ。父福世喜、母マツ次男、芝浦工業大学教授で専攻は経営学。東京に奄美出身の大学教授多数居るが経営学の専攻は珍しい事例。

 六五年、早稲田大学大学院商学研究科博士課程(所定の単位取得)元、早稲田大学産業経営研究所員。芝浦工大講師を経て七八年教授、八八年教授会(B)議長に就任。所属学会は日本経営学会、マ ス・コミュニケーション学会など八学会。

 バーナード学説研究の第一人者。日本型経営の今後について次のように語る。「日本型経営は二一世紀に入り大きく変わる。工業化社会から情報社会に入り物を作って栄えた日本も脱工業化時代を迎 える。日本経営を支えて来たた終身雇用、企業別組合、年功序列制がなくなり人事部、労務部も消える。大学生一人の終身雇用には四億円が必要であったが不要となり、派遣社員の比率は七〇%にな る。芝浦工人でも十四人の専任講師が今は二人になり後の十二人は非常勤だ。一人の専任経費で九人の非常勤講師が雇えるからだ。働く方も一社に終身居るよりは会社を替わった方が良いのでは」と 言う。

 二一世紀の日本経済について「工業社会を支えた自動車産業は十六兆円だが医療事業は二八兆円である。しかし何がメインとなるかは不明だ。二一世紀は日本の時代と言うアメリカの国際的な経済 学者もいるが日本が生き残るには国際化への適応能力が必要だ。二〇一〇年には雇用が復活人手不足も出て来るだろう」とも語る。著書『コミュニケーション・アプローチ』―バーナード経営学の道 ―早大出版部。

 《参考文献》「南海日日新聞」(一九七七年十二月二一日)


盛島角房記発表者第一号

竹内良友


 一八八六年、亀津に生れ、明治三〇年、亀津小学校四年卒、長崎高商を出て大陸へ。戦後島で教職、徳之島郷土研究会会員、一九八五年、東京狛江市で没、墓は平塚市市営霊園にある。

 その先駆的活動として高く評価されているのに亀津明治人の代表として級友盛島角房の記録を『徳之島郷土研究会報』(昭和五四年二月十目、同研究会発行)に発表したことがあげられている。

 蒙古徳王の顧問役として蒙古独立運動に参加、戦前の日本において蒙古研究の第一人者として叙勲に輝いていたのが角房であり徳之島人の誇りともされていたが戦後は語る人もなくなっていた。竹 内論文を皮切りにその波乱に満ちた生涯の研究が始まった。

 この論文では、明治時代にあった島相撲のことやハシカ流行で医者も患者もどんなに苦しんだかなど村の様子も克明に書かれている。亀津では琉球系士族の家をシュウ、薩摩系をドン(殿の意か)と の敬称で呼んでいた。角房は幼名はシュマシュウだから琉球系、竹内はサブドンであった。竹内は薩摩藩士(串良)の子孫で竹内医院を亀津で経営していた。妻ふさえさんは、一九八八年、二五〇首 を収録した歌集を狛江市で発行、「赤旗日曜版」九月十一日号敬老の日特集に「九六歳で歌集処女出版」と顔写真入り紹介され、その後白寿を全うした。夫と共に平塚市市営霊園に永眠。

 《参考文献》『徳之島郷土研究会報』一九七九年二月十日、同研究会刊。一九八八年九月十一日「赤旗日曜版」日本共産党発行。


内村鑑三に心服の開業医

武原嘉豊


 一八七九年、徳之島松原生れ。一九六〇年没。カソリック医師第一号。長崎医大を卒業して平土野で開業したのが一九〇四年(明治三七年)であった。

 徳之島天城町では医院の元祖でもあり、毎夜の往診と酒宴の激しさに絶え切れず本土に渡った。村に医者がいなくなり村中あげての帰郷運動で呼び戻された。

 一九二〇年、メソジスト教会で洗礼を受け、酒、たばこを絶つことを誓った。二九年から三二年には推されて村長に就任した。

 三九年には志願して満州開拓団医師としてソ連国境に渡ったが病のため帰国した。戦争末期、軍部のキリスト教弾圧が強まり、平土野教会松本牧師の身に危険が迫ったのでこれを自宅に匿い軍部に 抵抗した。戦後、松本牧師は武原家の墓に埋葬された。

 武原医師は自らの信仰を妻や子供、患者などに勧めることはなかった。酒、たばこも完全に絶つことはなかった。聖書を毎日毛筆で書き写し信仰を深めた。

 明治末期、米国の大学を卒業してカソリックとなった内村鑑三は、一高教授時代、天皇の御真影を拝むことを拒否した著名人だが武原医師は松本牧師の紹介で内村を知りその思想に心服、文通を重 ね信仰の勉強を続けた。内村の手紙は大切に保存されている。

 《参考文献》『徳之島亀津教会史資料』日本キリスト教団徳之島伝道所刊、徳之島の先人を偲ぶ会復刻。


無処罰厳訓教育の発案者

龍野定一


 一八八九年、徳之島亀津生れ。一九八六年没。父前定、母めったかね長男。徳之島郷士龍家の一統。厳訓無処罰教育、社会教育運動の実践者、旧制大島中学校長。名瀬市名誉市民、徳之島町名誉町 民。

 一九〇二年、亀津の小学校を出てから鹿児島二中、広島高等師範国漢科を一三年に卒業、福岡県の東筑中に赴任、ストで教師を軟禁暴れる生徒十三人を退学処分にしてからなんとか処分なしの教育 はないかと考えるようになった。

 無処罰教育の道を求めて鹿児島一中、広島一中、京都男子師範など一流校を転々とした。二二年に文部省に頼まれて東京の貧民街深川にセツルメント善隣館を建設、館長になり社会教育活動に乗り 出したが翌年震災で全焼した。

 一九二四年、大島中学の校長に就任、全国に有名となった無処罰教育の実践が始まった。教師に抵抗して学校から追放されていた中村安太郎の復学を許したり、生徒と共に運動場整備やプール建設 に汗を流し最低校の校風を一変させた。

 九州地区の水泳大会で大中は優勝したり、一高、七高など難関校の入学者が出たり、国立大学への進学でも、五年間で県下屈指の中学となった。生徒一人一人の特徴を九〇歳になっても忘れず「親 父」と慕われた。

 奄美の石油基地に反対する会、東京奄美会などの役員や顧問もした。全国公民館連絡協議会議長など最後まで現役を貫く。著書『日本のこころ』謙光社。『厳訓無処罰の教育』『話せば子供はわかる』

 《参考文献》『郷土人系』中、下、南日本新聞社。右田幸蔵『龍野定一先生―想い出の中から拾う』『郷土の先人に学ぶ』四集。大岡亮義『奄美愛郷百話』「道之島通信」六四号、七三号、一二三号他。 「平和の女神の像」東京北区飛鳥山公園。


敗戦で七転八倒の苦しみ

龍野忠久


 一九二七年生れ、徳之島亀津二世、東京育ち。一九九三年没。父定一、母とも予長男。兄弟四男一女。一九四五年十二月、中学の同期生らを自宅に集め、全員カミソリで小指を切り血判の連判状を 作成し「殉皇菊本党」を結成した。

 目的は、マッカーサーと共産党の徳田球一を殺すと言う「超国家主義テロリスト集団」であった。皇居の清掃奉仕団にも参加、天皇から恩賜のたばこを貰ったりしていたが一年後に消滅した。

 『死ぬことしか知らなかったボクたち』と題する本が九七年に発行され大きな話題を呼んだ。故人となった龍野と中学の旧友で戦後行動を共にした原田奈翁雄の共著である。

 一人でも多くの敵を殺すことだけを教え込まれた皇国青年がオウム天皇教から抜け出し、自らの納得出来る人生を自らの手にするためいかに七転八倒したかが克明に語られている。

 早稲田大学を卒業してフランスに渡り、帰国後、新潮社に入り、定年まで校閲の仕事に従事した。父定一の晩年は奄美の各種団体の集会にも参加していた。著書『パリ一九六〇』沖積社。『死ぬこと しか知らなかったボクたち』経書房刊。「父の最後」一九八六。

 《参考文献》「朝日新聞」(九五年四月四日から五回連載、殉皇菊本党)「道之島通信」一四五号。


失明しても郷土紙を発行

田村佐衛源


 一九〇五年徳之島母間池間生れ。父才芳、母メサ次男。兵庫県芦屋市で郷土紙「南潮新聞」発行、六七年交通事故で失明しても新聞発行を続け、その情熱は大きな感動を与えた。八〇年に『私の歩 んだ道』四六判、二六二頁を刊行した。その七五年の記録は徳之島の庶民の生きた記録として貴重な内容である。

 一九一四年、母間小学校を卒業、亀津の波江野洋服調進所や指宿良英商店に住込みで働いたが約束の月給一円はもらえず退職、当時船乗りになり毎月五円も家に送金してくる人の話を聞き船乗りに なると決心、日高丸で島を出た。

 叔父からその日のために三〇円借金していたので鹿児島まで四円の運賃は払えた。門司に辿り着き三四〇トンの木造船に乗り込んだ。月給五円で家の仕送り、叔父への借金返済に当てた。金が出来 たら勉強して巡査になり将来は弁護士になりたいのが夢であった。

 一九一八年神戸で米騒動のデモを見たり樺太行きの石炭船に乗り樺太で破船、二年間樺太工業で働いたりもした。二〇歳で早稲田中学講義録四年間の終了書を手にした。

 東洋海事新聞社入社、失業鹿児島県人救済の(財)海上鹿児島県人会機関紙「力行」編集、三四年「神戸みなと新聞」を創刊、四〇年国策により廃刊まで順風であった。

 一九四六年に奄美ニュース創刊、奄美新聞、南潮時報、南潮新聞と改題。母間会、奄美連盟、奄美連合結成など関西奄美史の字引的存在。

 《参考文献》田村佐衛源『私の歩んだ道』南潮新聞社刊(芦屋市)


日本復帰運動決起第一号

為山道則


 一九二一年、徳之島亀津生れ。一九九六年没。父前満、母ゆわの長男(旧姓為、二八年為山に改正)軍政下の徳之島から宮崎県大島町に密航、大島町青年団と宮崎奄美同郷会を結成会長となり、本 土で初めて公然と奄美の日本復帰運動を展開する。

 一九五〇年二月、全国の同胞に檄文を発送、これに呼応して徳之島の青年団、名瀬市青年団、東京の青年学生が復帰運動を公然と開始、復帰運動が全世界に紹介され公然化した。

 徳之島亀津青年団の幹部が点火した復帰運動で三年後奄美の日本復帰は実現した。復帰運動史を語る時、最初に登場するのが道則のこの行動である。

 亀津の小学校を卒業して満州に渡り、満鉄育成学校高等学院を卒業、戦場に送られ比島で負傷終戦。戦後帰省、四七年七月、町立亀津高等女学校の英語教師となる。

 青年団幹部として島の民主化運動を展開。祖国復帰を主張する青年団幹部に対する軍政府の迫害が激しくなり、このままでは奄美は第二のハワイになるとの信念から復帰運動に命をかけることにし た。

 密航船で鹿児島県庁に行き島出身の保岡武久副知事を尋ねるが面会を拒否され、宮崎県大島町に行き与論出身の川畑秀吉(県警警備部長)の協力で復帰運動の組織化に成功、目的を達成した。

 宮崎県社会福祉主事を退職後、社会福祉基金、日中友好協会などで活躍。厚生大臣賞も受賞。

 《参考文献》「道之島通信」一四二号、高安重正『沖縄奄美返還運動史』村山家国『奄美復帰史』「亀津高等女学校交友会誌」「南日本新聞」九三年三月三日、「宮崎日日新聞」九六年八月一六日。


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