革新派の市会議長第一号

豊山八郎


 一九〇四年、徳之島西阿木名生れ。一九九五年没、父名越向郡、母なべの末子、六人兄弟。父は徴兵検査を逃れるため盛家から名越家に養子入りした。島唄にも出てくる資産家でもあった。

 八郎は祖父の子として育てられ豊山性となったが経緯が良く分からないのでルーツを調べ自分史を書いてみたいとカルチャーセンターで晩年学んでいた。一九三三年、小学校を卒業して満州に出て 働いた。

 終戦で調布市に引き揚げ、納豆売りをしながら五人の子供を育て日本社会党に入り市民運動を始めた。五五年市議会議員に当選、八三年まで七期二八年間、落選知らずで市議会議長も勤めた。革新 議長一号としてマスコミは大きく報じた。関東天城町会には毎年参加、島のことを少しでも学び失われたものを取り戻したいとしていた。

 調布市は五三年、辞退を続ける叙勲を受けるよう重ねて要請、後輩達も後が困るので受けるよう求めてきたので仕方なく受理した。勲四等瑞褒章は自治体功労者に贈られるものだが調布市として初 めてであった。

 《参考文献》「道之島通信」一〇七、一一二、一三五号。『島興し通信』(松田清編集)八号。


明治の三方法運動指導者

時 直薫


 一八四六年生れ、没年不明。徳之島兼久士族直政長男。一八〇〇年頃、徳之島に来た鹿児島藩士島津多門が徳之島に残した子孫であり、時(土岐)豊蔵を名乗っている。戸長、県議、三方法運動リー ダー。

 一八九〇年(明治二三年)の国税納税額が二三円一五銭九厘で徳之島でトップ(大島郡で十九位)であった。明治二三年施行の第一回総選挙は国税十五円以上納入者に限られていた。大島郡で五二 人いたがそのうち徳之島は四人となっている。

 時の次は、花徳の林、亀津の堀、西阿木名の芝田が続いている。糸木名の系、阿権の平など十五円の国税を収める収入がなく、それから十数年の間に稼ぎまくり全郡のトップ級となった。

 一九八八年、明治になって二十一年も経たというのに奄美の農民は自分たちが生産した黒砂糖の自由取引を禁じられ、鹿児島県が保護している鹿児島商人との取引だけが認められていた。このため 無暴な高利で全郡の農民は借金地獄のどん底に突き落とされた。

 この地獄から脱出のため全郡の農民は、慶応義塾出身の石井清吉を救命主として「三方法運動」を展開した。直薫は、この運動のリーダーとして徳之島の二人の委員と共に大阪市場を視察、大阪へ 黒糖販売を開始、地獄脱出を成功させた。一八九四年は県会議員に当選活躍した。

 《参考文献》「道之島通信」十九号、一二六号、一四四号。


戦前記者戦後名頼市議長

土岐直家


 一八九九年、徳之島兼久生れ。一九六九年没。時千良(士族)次男。新聞記者、名瀬市議会議長。島津多門七代目の子孫。多門は一八〇〇年初頭家老になるがそれ以前、勝手係りの頃徳之島に来て 子孫を残した。それが、時家と豊蔵家である。時家は、郷士となり子孫が土岐に改姓した。

 一九二一年、大島中学卒一回生。東京で私大を卒業。三四年「大島新聞」に入りジャーナリストの第一歩を踏み出した。以来「奄美新聞」「奄美評論」に関係し、一九五〇年には「週刊奄美経済新報」 を創刊するなど新聞記者にこだわり続けた。

 奄美では明治から戦後まで三〇に近い新聞、雑誌が発行され消えて行った。直家が入社した大島新聞は、月十五回発行、電通と契約、東京ニュースを掲載するなど近代的な新聞であり「大島朝日新 聞」と覇を競っていた。三九年、戦時体制のため大島郡は一紙となり四四年は一県一紙となった。

 戦前に名瀬町会議員となり『名瀬町案内』を執筆。戦後、市長選を泉芳朗と争い破れるが市議会議員に無所属で当選、第十代市議会議長として市の発展に貢献した。

 一九三八年、総選挙に天城町出身の小林三郎が立候補、その応援をしたとして「奄美新聞」の新天領社長以下社員の殆どが警察に四〇日間留置取り調べを受けた。

 これで多くの社員が退社した。直家も同社を辞め台湾に渡り、新竹州で庄長(村長)などした。戦後、名瀬で印刷屋を開業、順調だったが火災に遭い苦労が続いた。

 《参考文献》『名瀬市誌』2巻。『徳之島採集手帳』三一号、徳之島郷土研究会。土岐家略譜。


講道館で柔道九段の鬼男

徳 三宝


 一八八六年、天城町兼久生れ、一九四五年没。小学校は亀津、父三和豊、母マツ長男。講道館九段、父は山師といわれる鉱山開発者、母はその二号さんでもあった。

 小学校低学年の教科書副読本に「柔道一途に生きた男」として紹介されており、講道館の鬼ともいわれ日本一の暴れん坊でもあった。スポーツ紙、雑誌、新聞に単校本にこれほど語られた奄美人は 他にいない。

 荒々しい性格と喧嘩の数々が記録されているが三宝を慕う門下生も多かった。徳之島の小学校から鹿児島の第一中学校へ進学、好きな剣道をしていたが真剣を生徒に持たせ、かかって来いと生徒を 追い回していた教師に怪我をさせたので剣道が禁止され柔道に転向した。

 「島人のくせに」と差別され売られた喧嘩を買い相手を叩きのめしたという記録もある。一九〇四年、広島に佐村師範を尋ねたが京都に出かけて不在、広島までの旅費しかないので歩いて行ったと言 う。

 その行動は真似の出来ない事である。二年後に東京高等師範に入り講道館に入門、他人の追随を許さない荒稽古を重ね、四年間で四段というスピード昇段をした。しかし、八段になったのは三七年。 二五歳から五年間、破門されていたためでもある。

 一九四五年、空襲で道場も焼け行方不明となった。江戸川に飛び込み、人を助けようとして何人にもすがりつかれ川底に没したのだろうと言う人も居る。「ミタカ兄がいなくなった」と、わらじ履き の龍野定一は焼け野が原を何日も探し続けたが遺品ひとつ見つからなかった。

 一九五七年、江戸川区最勝寺に門下生と東京奄美会は顕彰碑と墓を建てた。

 《参考文献》原康史『実録柔道三国史』『同続』東京スポーツ社刊。指宿英造『柔道一代徳三宝』鮮明堂。藤田紀盛『講道館九段徳三宝』非売品。「道之島通信」五八号。『徳三宝をしのぶ』(龍野定一、 重田為良、松原正見談)関東徳州会編。他十数点。


奄美伝導会で島の支援を

徳 憲義


 一八九二年亀津生れ、一九六〇年東京で没。柔道家徳三宝は従兄弟。徳武義多摩少年院長は弟。父が那覇裁判所書記のため沖縄一中に入り二年生の時、父母の勧めでキリスト教の洗礼を受けた。

 級友に日本共産党書記長になった徳田球一がいた。二人とも英才で法律勉学めざし鹿児島七高を受験したが憲義は不合格となった。翌年、教会の推薦で関西学院神学科に進学、同校を卒業後、一九 二三年(大正十二年)渡米、プリンストン大学を二七年に卒業、アンゼルス合同教会牧師とて八年間布教活動を行った。「比較宗教論」で学位を取得した。徳之島人第一号である。学者タイプでなく説 教家であった。学生時代には雄弁大会に出場、数多くの賞品を獲得していた。

 一九五三年、奄美の日本復帰で徳之島での伝導開始を聞き、九月二二日付「基督教新聞」で、徳憲義牧師は、徳之島の伝導支援のため、全国のキリスト教信者で奄美伝導会結成を呼び掛けた。一九 一三年学生時代、夏期伝導のため訪問した事のある自分の出生地を忘れる事はなかった。

 「神官や坊さんが一人もいない徳之島は布教活動には最適の場所であり、明治末期先人の努力により役場に敷地を寄付させ教会も建ててあったが軍部の弾圧で戦争末期は無人の教会となっており、布 教再開が待たれる。残念ながら病身でありその回復を祈るだけである」と書いた。戦後、日本基督教団巡回教師として全国講演、一九四九年に脳溢血で倒れたが、病身を押して下落合教会を設立した。

 《参考文献》『徳之島亀津教会史資料』(旧日本メソヂスト教会)徳之島の先人を偲ぶ会復刻版。


世界一の少年矯正活動を

徳 武義


 一九〇二年亀津生れ、一九八四年没。一九四八年、国立多摩少年院院長に就任、十年間で世界最低の水準にあった日本の少年矯正活動を世界一にした人として後輩に慕われ没後十年祭、十五年祭が 盛大に続けられている。

 奄美出身者の役人には、自己の出世だけに目がくらむものが多い。徳はその没後、何年もその遺訓を学ぶために後輩や知人を集めており、例のない事である。徳院長の偉大さが立証されているとい えよう。

 少年院は小悪魔の巣窟と社会から白眼視されてきた。徳は「人権が保証された民主的な社会に開かれた全人教育を目的とした矯正活動」を目標に、愛と思いやりの哲学実践の場にした。

 少年には「ここは君達の長い人生の休憩場所だ、ここで学んだことが社会で役に立つこともあろう」と語り、職員には「少年の現在を信ずるな、十年後を期待せよ、どんなに裏切られても希望を捨 てるな」と訓示した。

 外部との交流も活発化した。八王子駅前の花壇整備、野球試合、音楽や演劇公演、物品販売など通じて少年たちは変わって行った。毎日少年たちの寝顔を見てから帰宅する生活は十年も続いた。島 出身の地質学者が尋ねてくると早速少年たちに地質学の話しをさせた。

 父は那覇裁判所の書記であったため沖縄一中に進学、両親に見習いキリスト教の洗礼を受けた。熊本五高から京大法科に進み、一九二八年卒業と共に浪速少年院補導係として夢の実現目指してスター トした。

 一九三〇年、渡米、カリフォルニア大学に留学、三三年同志社大学教授就任、仙台、京都などの保護施設を経て戦後多摩少年院長となった。「三百のかんばせ若く輝きて今朝も語りぬ藤棚の下で」の 歌や遺稿論文多数ある。

 《参考文献》梶原宗乗記「昭和矯正史の人々 徳武義」「道之島通信」一三三号


官立大学卒を恥じる弁護士

徳田 基


 一九〇四年、徳之島亀津生れ、一九二八年京大法科卒、弁護士、鹿児島市在。福岡家庭裁判所、鹿児島地方裁判所で検事判事など歴任、戦争でソ連に抑留され一九五〇年二月帰国、七四年に弁護士 登録開業した。一族には徳田秀夫弁護士(一九〇一年生れ、中大卒、東京)がいる。徳田弁護士は、平利文、神田義一郎、吉満義彦、亀津日本一学士村のことなどの思い出の記録を書き残している。

 この中に亀津出身の旧帝国大学卒業者二八人(一九三〇年頃まで)のリストと、一九二二年夏七高三年の時、帰省学生の呼び掛けで開催した全島青年大運動会のことが書かれている。

 亀津女子青年団は、学生側の協力申し入れに対して「学生は卒業したらヤマト妻を貰い島を見向きもしない」ので協力のしがいがないと協力を渋ったので「卒業したら島の娘を妻に迎える。島のた め尽くす」と連名で誓約書を書いて渡し協力して貰った。

 帝大卒二八人のうちたった二人だけが島娘を妻にした。島のため直接働いたのは久留義郷代議士と奥山八郎弁護士(復帰運動、復興運動リーダー)の二人だけ、約束を反故にしたことを恥ずかし く思っている。

 官立大出身者に比べ私立大出身者は、苦学力行、島のため貢献した人や、島娘を妻にしたのが多い。後輩の模範となるものが私大出に多いので今後調査して記録をまとめて欲しいとも提言している。

 官等民卑の陋習から脱出出来ない故郷への野人弁護士の金言でもある。


地名語源研究でも先駆者

徳富重成


 一九二四年、徳之島尾母生れ。郷土史研究家、法政大学地理学科卒。島で教職定年後、郷土研究に専心、八四年、徳之島郷土研究会会長に就任、九七年一月病気で倒れるまで徳之島の文化活動を一 身で背負って来た。

 測量士、二級土木管理士の資格を持っており、徳之島の数多くの小地名調査で現地を確認、語源解析活動に役立てている。言語障害で自宅療養中。

 徳之島町文化財保護審議会会長、奄美文化財保護対策連絡協議会会長、奄美民具学会会長、法政大学沖縄文化研究所、鹿児島短大南日本文化研究所、沖縄国際大学南島文化研究所などの研究員も引 き受ける一方、地名調査活動の結果を地元の新聞などに連載した。

 外部の新聞雑誌に発表の記録は『雑記集成』としてB5判一五〇頁前後に製本、すでに十三巻を国会図書館に納本永久保存されている。

 主な著書。『かけろまの民俗』共著、第一法規出版、『日本地名大辞典』鹿児島県執筆委員、角川書店。自家版、『尾母方言集・尾母三弦の唄』『徳之島の昔話』共著。『徳之島七月踊りうた』『徳之島 における子供のあそび』『雑記集成』一〜十三。

 毎年恒例の行事となっている徳之島町シマグチ、シマ歌大会は、十七回に及んでいるが、これを全文カタカナで収録資料集として発行しているがその企画を発案実行した先駆者でもある。 《参考文献》「道之島通信」一一八号〜一四三号。


奄美の方言の自家版発行

直江光良


 一八九一年、徳之島伊仙町阿壬生れ。一九八五年没。教育家、方言研究者。一九一四年に鹿児島師範本科第二部卒業、犬田布小学校教師となり以来四八年間教育家として活躍した。

 一九二四年に龍野定一が鹿児島県知事の要請で大島中学再建のため校長として赴任して来た時、東京から国語教師として駆け付け龍野を助けた一人でもある。

 戦後、徳之島町と伊仙町で教育長や校長などもした。奄美の方言は将来死語となり消えていく運命にあり、今のうちに収集して文化財として保存伝承したいと収集に努めた。

 従来、奄美方言と言っても自分の出身地の方言に限られていたが直江は全郡の方言収集にも努力した。七八年、米寿記念に自家版で発行した『奄美方言』は大変貴重な文献である。

 この本は強い訛りのため本土では全く通用しないので、民族的にも異民族ではないかとの不安を抱くのもあるが、奄美の言葉は日本語であることを証明することを目的にまとめたとしている。

 標準語と共通のものとして四三〇〇、日本の古典に出てくるもの三六五、各地の方言と類似のものなど五五〇〇以上の語彙が収録されている。龍野定一が推薦文を書いている。戦争中「方言撲滅運 動」を指導した老教師の賄罪の書でもある。著書『奄美方言』神戸新聞出版センター、自叙歌集『浮き沈み』自家版。

 《参考文献》「徳州新聞」(八五年十一月十四日)「道之島通信」一二一号。


徳之島教会史の発行提唱

永井円信


 一九〇三年亀津生れ、一九七二年大口市で没。一九四六年、陸軍中佐で復員、七歳でキリスト教の洗礼を受け、軍隊の中にあったキリスト軍人グループ「コルネリオ」に所属、文筆活動をした。父 の円与は、明治五年、亀津郷校の山徳峯付人で、災害の時に蔵を開き難民救済をして国から表彰された事があり救済活動は親譲りでもあった。

 円信の活動の中で特筆されることは『徳之島亀津教会史資料』の発行を提唱、先人の記録を集め、編集を開始した事である。(病のため一時中断したが後継者が引継ぎこれを完成させた)。

 「歴史と言うものは、事実の起こった時に、確実な資料を得て記録しておかねば時の経過につれて、二、三〇年のうちに事実が次第に不鮮明になりついに不明になる事を痛感した。教会史編集を急ぐ 必要がある」とも発言している。

 鹿児島二中から陸軍経理学校に進む。入試会場を十分位で出て来たら試験官に陸軍は冷やかしに来る所ではないと叱られた。試験は全部出来ましたと答えたらびっくりしていたと言うエピソードが ある。

 戦争中は、近衛師団の主計将校として、朝鮮、台湾、関東軍、ジャワ、スマトラなど転戦した。戦後、大口市に引き揚げ、希望の家を開設、青少年の更生事業に尽くした。また、賀川豊彦指導の立 体農業に共鳴、農民福員学校も開設した。一九六二年、アール・ランキング・プール著『沖縄又は琉球』の抄訳完成。

 《参考文献》『徳之島亀津教会史資料』日本キリスト教団徳之島伝道所発行、一九九七年、徳之島の先人を偲ぶ会復刻版。


富豪よりも働く者を尊ぶ

納 武津


 一八八〇年徳之島亀津生れ。一九〇一年、早稲田大学英文科卒、鹿児島県立川内中学校教諭となったが辞めて上京、堪能な英語を生かし雑誌の執筆、英語辞典の編集、早稲田大学関係、私立専門学 校の教授等を歴任。没年不明。

 一九二一年から数年間、床次竹二郎代議士の個人教師となり欧米の政治、経済、社会政策の立案に関する文献を原著で講義した。床次代議士は、東大卒、鹿児島一区選出の大物で後に内務大臣や鉄 道大臣など勤めた。

 『奄美愛郷百話』(一九三六年発行)に「故郷奄美に対する感想と希望」と題する六千字に及ぶ提言がある。この文の最後に「曠職の国務大臣や守銭奴の富豪より私はむしろ勤勉な労働者、農民を尊 ぶ」と記している。立身出世のために血眼になっている奄美人が多かった時代にあって学究派野人として生きた姿勢が感じられる。

 「衣食足りて栄辱を知る」と言う言葉があるが働きたくても仕事のない若者はどう生きたらよいのか、どう仕事を自分で作り出すのかと政府の無策に憤激する。

 島の農業、紬以外の工業、海洋資源の活用、台風の活用、ハブ対策、文化活動について六〇年首の発想とは思えない新鮮さを感じる提言でもある。戦前の東京奄美会維持会員。東京奄美学生連盟で の講演もした。

 《参考文献》『東京奄美会八十年史』東京奄美会刊。大岡亮義『奄美愛郷百話』全国新聞通報社発行。「徳之島新聞」(本社大阪市、九四年十月十日)


喜劇俳優TVスター一号

八波むとし(本名坪田稔)


 一九二六年、徳之島沖之川生れ。一九六四年東京で没。喜劇俳優、テレビスター第一号、ミスター徳之島。生後三か月で母が死去、小学校入学前に本土に渡る。一九四四年、近衛師団に入隊、日大 演劇科で学ぶ。

 一九四六年、森川一座の研究生として喜劇俳優の道に入る。当時、一世を風靡していたエノケン、ロッパに取って変わる新感覚派として頭角を現す。五五年、日劇ミュージックホール「カッパ天国」 に、エノケンの当たり役カッパで出演、大好評を博した。

 テレビ放送が始まると、由利徹、南利明と三人で「脱線トリオ」を結成出演。日本テレビから「ミスター徳之島」として売り出した。六三年九月「マイフェアーレディ」に出演、菊田一夫から表彰 状を送られた。

 一九六四年は、ミュージカルの年として正月からハッスルしていたが四日、車で都電松任町電停に激突、三八歳の命を散らした。徳之島で六歳までしか育たなかったが島を愛しこだわり続けミスター 徳之島を売り込んでいただけに事故死の衝撃は大きかった。

 「朝日新聞夕刊」(一月十日)は、追悼文を掲載、その死を悼んだ。五月にエノケン、三木のり平が追悼興行、利益を三人の遺児に送った。息子の一起が父の遺志を継いでテレビ界で活躍している。

 《参考文献》『新人国記』六、朝日新聞社、「道之島通信」一二四号。「中日スポーツ」一六面(八八年十一月二九日)『郷土人系』上、五〇七頁、南日本新聞社。


先人顕彰碑を郷土に建立

浜口虎英


 一九一六年、松原生れ、一九九三年没。日大卒税理士。創価学会会員、東京奄美会幹事長、関東徳州会会長、天城町会会長など歴任。子孫のため金や財産を残さない主義。

 徳之島天城町に「日本復帰記念碑」「松原初代郵便局長稲村武明顕彰碑」など先人顕彰碑が数多く建立されているが、その中心となって活躍したのが虎英であった。一九七六年には出身小学校に「希 望の像」を寄贈した。

 また「松原音頭」「徳之島ホーラシャ節」「奄美ヨイトサ節」など歌詞の制作にも力を入れた。自らの人生哲学として「仏教哲学に詳しくなる」「人生を楽しく誠実に」「若い青年の育成に勤める」を あげ実践した。

 奄美日本復帰十周年記念大会を中央大学講堂で開催した実行責任者でもあり二千人を越す屋内集会を初めて成功させた。郷友会の動員についてもずば抜けた企画力を発揮した。

 「どうしたらそんなに多くを集めることが可能か」と各町村会から問い合わせも多かった。これについて「島の年寄りは若い人を家来扱いにするがこれをやめること、幹事長と会長が寄付を集め参加 者の会費を安くすること、みんなが楽しめる内容にすること」と経験を誠実に答えていた。

 「二一世紀島への夢」と題する提言を残しているが「ハブ一匹五万円買い上げ」「島外出身者の特別町民制度」など大変ユニークな内容である。小平霊園に永眠。

 《参考文献》「道之島通信」一一五、一二二、一二三号。「南海日日新聞」七六年十月二六日。


徳之島の国会議員第一号

林 元俊(げんしゅん)


 一八六〇年生れ、一九〇四年没。徳之島花徳の郷士、林為喜祐の子。漢学と数学について学び、戸長時代には山村外五村戸長を勤めた。祖先は川内の藩士鵜野木又左衛門。

 一八九八年(明治三一年)第五回総選挙で代議士に当選、所属は立憲政友会、徳之島出身国会議員第一号。税金十五円以上納税者だけに選挙権があり、奄美の有権者二〇八人、元俊得票一一〇票で あった。

 どんな活動をして全郡の金持一一〇人を集めたのだろうか、主な経歴を見てみよう。大阪第七九国立銀行取締役大島支店主任(重役が支店主任とはどういう事か、衆議院に残る記録の誤りか)鹿児 島農工銀行設立委員、代議士になる四年前、大島興業を設立、社長に就任した。

 このなかで歴史に残るのは大島興業の活動である。西南戦争で西郷隆盛一派が全滅して初めて奄美にも交易の自由が認められた。しかし、海上の交通権はすべて本土資本にあって高い運賃のため交 易の発展は阻まれていた。島の資本で島の人が島のための海上交通を目指したのが大島興業であった。政府の離島航路補助金も確定し、数隻を運航させ琉球王国以来、奪われていた海上交通権を手に して万歳した。しかし、隆盛丸という名前のせいでもあるまいがこの船が台湾で坐礁、その引上げで多額の資金を費やし資金繰りが悪化、借りていた糖業改良資金の返済も出来ず、大洋商船に身売り した。

 《参考文献》『議会制度七十年史衆議院議員名鑑』「徳之島新聞」(本社大阪市、九四年十二月十日)


三四歳最年少の国会議員

林 為良


 一八八四年、徳之島花徳生れ、一九三三年没。元俊の長男、大島電気(株)創立者。一九〇九年、早稲田大学商学科卒、一一年(明治四四年)大島の有力者を集めて大島電気(株)を創立、取締役 となった。奄美への電力導入第一号の功労者でもある。

 一九一七年、第十三回総選挙に担ぎ出され当選する。三四歳、鹿児島県下で最も若い二世代議士一号でもあった。有権者八二五人、得票数四四八で次点の長島隆二の得票二七九票に大差を付けての 当選であった。

 しかし、選挙への出馬は一回で取り止めた。親子二代の代議士活動で金が掛かり過ぎこのまま選挙を続ければ林家は井戸と屋敷の塀だけを残し消え去ることになるのを自覚し家業に専念した。

 明治二七年(一八八四年)以前、常に金万円以上、米千石以上を貯蓄する徳之島の富豪トップ『徳之島事情』であった林家は転落を始めた。一九二五年(大正十四年)多額納税者のランキングで大 島郡の一位は糸木名の系重徳=六〇九五円六五銭、二位は阿権の平正之=二九九八円二八銭に比べて林家は五位二〇〇七円五二銭である。系、平は一八九〇年(明治二三年)国税十円以下の納税者で あり大差を付け追い越されたことに焦り感じていたのだろう。

 《参考文献》『議会制度七十年史・衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局発行、『郷土人系』上、南日本新聞社。『島興し通信』松田清編、六二号、六三号。


「処世要諦五か条」残す

久留義郷


 一八七八年、徳之島亀津生れ、一九五七年没。徳之島出身東大卒、鉄道局長、代議士。一九一五年には第二代東京奄美会長(当時は大島郡青年会と称した)もして島のため健闘したが顕彰記録は何 もない。戦後の銅像ブームで票集めしたのに比べれば片手落ちの感がする。

 一九〇四年、東大独法科を卒業、高等文官試験に合格、鉄道省に入り六年間も係長をしていたが、発奮して著書を出したらそれが認められ、洋行したりして鉄道局長にまで昇進した。

 一九二七年、鹿児島三区の補欠選挙で衆議院議員に当選、所属は、立憲民政党。翌年は落選、三〇年に返り咲いた。久留代議士の活動で記録に残るのは、鹿児島枕崎線の建設に努力したと言う以外 はあまり目につかない。

 三六年発行『奄美愛郷百話』に「処世要諦五か条」を寄稿している。現代にも通用する内容でもある。全文四千字。 (1)一生一業主義に徹すること。 (2)怒ることを避けよ。 (3)一技一能を培養せよ。 (4)酒の交遊を警戒せよ。 (5)出処進退を明らかにせよ。

 自身の体験記を若い人に分りやすく書いてある。

 著書『実用購買論』『敗戦の国々を辿りて』

 《参考文献》『郷土人系』上、南日本新聞社、大岡亮義著『愛郷百話』『議会制度七十年史衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、「徳之島新聞」(九四年八月十日)松田清徳之島先駆者伝。


黒板新聞を開発の議会人

肥後吉次


 一九〇七年、徳之島亀津生れ、一九九六年没。名瀬市移住、市議、県議など四二年間勤める。徳之島町名誉町員。一九三四年、日大法学部法律科卒。

 名瀬市で大正時代から昭和初期に「大島朝日新聞」「大島日日新聞」を創刊、言論界で活躍した肥後憲一兄弟は一族であり吉次も先輩の影響を受け言論人として活躍した。

 一九三七年に月刊誌『大島』(後、大島評論に改題)を発行、三九年、国策統合で全郡一紙制となり、二つの新聞と三つの雑誌が統合し「大島日報」となり吉次は編集人となった。四四年四月、政府 は一県一紙制度をとり「鹿児島日報」に吸収され奄美発行のただ一つの新聞は消えた。

 吉次は、自分で経営する印刷所の道路に黒板を掛けこれに毎日のニュースを書いた。黒山の人だかりでみんなはこれを「黒板新聞」と呼んだ。国策統合への新聞人の抵抗でもあった。日本における 壁新聞の元祖という声もある。

 一九四七年に旬刊紙『奄美評論』を発刊、二〇〇号まで発行した。米軍政下で大島郡連絡委員会委員、中央農業会筆頭理事、食糧委員、経済復興委員長など歴任。四八年名瀬市議会議員、五〇年 群島政府議会議長、五一年二月三〇日、群島議会の日本復帰決議で中心的役割を果たした。五二年、琉球立法院議員当選。

 日本復帰後の五四年に県会議員当選九期勤めた。名瀬市議を含め四二年間落選なしの議員であった。軍政時代に明栄丸(五〇トン)を所有、密貿易で稼いだと言う話もあるが捕まる事はなかった。勲 三等瑞褒章、自治大臣賞受賞。

 《参考文献》『名瀬市誌』改定判2巻、名瀬市。『奄美群島要覧』一九五一年奄美群島政府知事事務局。村山家国『奄美復帰史』南海日日新聞社。『徳之島町誌』徳之島町刊。重武克彦『回想記』「道之 島通信」六号、十号。


日刊新聞発行の夢を追う

肥後憲一


 一八九〇年、徳之島亀津生れ。一九三七年没。一九二二年、名瀬町で「大島朝日新聞」を創刊。この新聞は、最新式の印刷機でルビ付きの活字を使用、四頁建て、月十回発行、本土の新聞に劣らな い近代的なものであった。

 発行部数も千部を越え奄美を代表する新聞となった。東京、大阪、神戸、福岡、朝鮮、満州、台湾に支局を設置し日本電報通信社と契約、東京ニュースを掲載した。出資者は、龍郷出身の弁護士、大 島郡区選出祷苗代代議士(一九二〇年、初当選、政友会)。

 一九二七年、弟信夫を大阪から呼び寄せ主幹にしてすべてを任せ、県会議員出馬の準備を始めた。祷代護士死亡後、株式会社とし全てを弟に譲り引退した。三四年、この新聞は奄美で初の日刊紙を 実現したが三九年国策統合に反対廃刊した。

 憲一は、県会議員選挙に破れたが日刊新聞発行の夢は消えず、三四年四月「大島日日新聞」を発行した。兄弟が狭い大島で別々の新聞を発行したので市民はびっくりした。スタッフは、社長肥後憲 一、編集長文英吉、主筆格坂井友直で、三人とも寅年(坂井は一回り先輩の寅)新聞作りはベテランであった。三匹の寅の行動は注目を集めた。

 寄付をしなかった隆義心を紙面で攻撃、告訴され破れて新聞は一年余りで廃刊となった。獄中で健康を害し、脳溢血で倒れ、徳之島で疾風の人生を終えた。

 《参考文献》『改定名瀬市誌』2巻、名瀬市刊。


島ぐち名演説の青年村長

平山源宝


 一九〇五年、徳之島伊仙生れ。一九七八年没。父平安宝、母ナシリ二男、ルーツは琉球王家首里之主一統。伊仙村連合青年団長、伊仙村長、奄美大島日本復帰対策協議会副議長、琉球立法院副議長。 社会団体では遺族会会長、農業高校PTA会長、農協長、沖縄奄美会連合会長など十指を越える肩書の他に、奄美新報社、沖縄評論社社長もした。

 正則英語学校、東洋大卒、同大学専門部講師、日大専門部法科中退。一九四六年、徳之島に戻り青年団を結成、村の連合青年団長になった。

 天皇のため死ぬことだけが国のためと教え込まれた青年や村人達は本土との交流が絶たれ民主主義とは何か、これからの世界はどう変わるのか不安の日々を送っていた。

 そこに東京で大学の先生をしていた平山先生が現れ農民の中に入りこれからの世の中について語り、迷信で足を踏み込まない土地の開墾をしたり、あらゆる集会で演説は島ぐちで行ったためその人 気は大変なものであった。

 一九四七年、村長に当選、奄美群島議会、琉球立法院の議員ともなり島の民主化と日本復帰のため努力した。共に青年運動をした人達は「伊仙の吉田松陰でもあった」と感動の日々を回想する。

 晩年は島の人物資料集を作り歴史の研究に役立てたいとの年賀状まで配り、記録をまとめに奔走していたが果たさず他界した。

 《参考文献》「道之島通信」四三号。『奄美名鑑』十一版、奄美社。『鹿児島県姓氏家系大辞典』角川書店。


電気工学一途の工学博士

福沢 寛


 一九二一年、徳之島亀津生れ、一九九七年東京没。中央大学理工学部電気工学科教授、三四年(昭和九年)亀津小学校卒業、鹿児島二中を経て四二年、京城帝大電気工学科を卒業軍隊へ。

 朝鮮で終戦、ソ連軍に連行され満州の収容所へ収容され八路軍に引き渡された。工学教官に任命され赴任の途中仲間四人と共に汽車から飛び下り決死の脱走を行い、五日間、彷徨命拾いをした。「引 き揚げ申立書」に克明な記録を残している。

 四九年、中央大学助教授、六〇年教授となった。六二年東大に「試錐孔及び坑道を利用する人工電位方の研究」論文を提出、工学博士の学位を受けた。このような研究の博士は徳之島人では異例の 事である。

 六七年から十二年間に「大地比抵抗測定器」など七件の特許も取得、発表した論文は三〇件に達している。共著に『電気工学ハンドブック』七八年、電気学会発行もある。

 日本の企業では、一般的に技術系統は社交性に乏しいとされているが福沢博士は、人間味が豊かで大学時代に鹿児島二中時代からの学友と毎週文通を三年間も続け、手紙は百数十通に達したとの証 言もある。郷里徳之島のルーツ研究にも熱心で、練馬奄美会に参加したり、亀津の方言や思い出なども書き残しおり、福沢家の事についての記録資料などもあると言う。祖父の福祐(一八四七〜一九 一七)は、明治五年に安住寺後に開設された郷校の教師であり徳之島ナンバーワンの漢学者で島の文明開化の推進者でもあった。今後の郷土史研究にとって貴重な記録となるだろう。残された二〇〇 箱を越える文書の整理が期待される。

 《参考文献》福沢寛「学術論文目録」竹中潔「追悼 深沢寛君を偲ぶ」


鹿児島商人の暴利と闘う

福島常徳


 一八二七年、亀津で津口横目喜美円の長男として生れ、一八九一年没。祖父角左衛門は伊佐士族。常徳は明治二十年代鹿児島商人の暴利暴虐行為に対して法廷で争い勝利した先駆者の一人である。

 鹿児島山形屋の先代岩元左兵衛が設立した「南島興産商社」が徳之島に進出、二三〇〇人の農家と砂糖の買取り契約を結んだ。日用品を支給、翌年の産糖で返すと言うもので換算率は商社が勝手に 決めていた。金利は一円について年九銭六厘という高利であった。

 福島は、明治十九年に、三四銭四厘を借りた、商社の請求は二八六二斤という不当なものであった。十九年は空前の大型台風で島の農作物は全滅に近く、二〇年の産糖で五九一斤の支払いしか出来 なかった。当時は商社の勝手な決定に抗議する農民に対して警察は契約不履行で逮捕すると言う過剰な商社保護をしていた。

 商社は裁判に訴えた。当時の裁判所は鹿児島士族でしめられ商社とぐるになっていた。大島の裁判所は、商社勝訴の判決を下した。裁判に破れた福島は屈しなかった。

 当時、徳之島に滞在していた慶応義塾出身の石井清吉と言う三重県人を代人に立て長崎控訴院に上訴した。裁判では商社が全面敗北し、福島の支払いは無用となった。

 奄美全郡で自由民権の指導者石井の指導を受け三方法運動が展開され、借金地獄からの脱出が行われた。当時、商社に訴えられた者。亀津=指宿文都志、篤勇喜応。西阿木名=窪田勇喜応、浅間= 浅松宮敬。伊仙=寛義鼎。

 《参考文献》『天城町誌』


明治初期の文書記録伝承

福田正明


 一八四三年、検福生れ、一八九三年没。明治初期の教員で当時の「大島五島三三人戸長名」明治十五年「徳之島戸長給料」「明治十五年大島一三六村名、戸長名」「明治十八年、大島郡役員姓名、学 校数記録」など克明な記録を伝承した。奄美には存在しない文書が多く近代史研究には不可欠の史料ともなっている。

 本人が明治十一年九月、徳之島支庁に提出の記録がある。原本は検福在住の福田登代子が所蔵、小林正秀が解読「徳州新聞」に連載した。全文収録してみた。 履歴書 鹿児島第九十二大区二小区検福村七十三番戸居住 平民 福田正明 一 明治元年二月より八月まで、当村旭福泉に従い漢学修業。 一 同八年八月三一日、師員拝命。 一 同九年一月六日、取締兼捕亡係り(巡査)拝命。 一 同九年六月七日、郷校係り拝命。 一 同九年八月二七日、授読助拝命。 一 同十年四月から伊仙小学入門下等小学第六級迄卒業。

 明治十一年九月 福田正明 徳之島支庁御中

 当時の履歴書は、生年月日など不要だったのだろうか。

 その他、辞令交付願い(明治十八年三月五日)には検福小学校世話係栄山永喜、第二学区、学務委員旭福泉などの氏名、教員福田の年給が米三石などが記載されている。

 伊仙町の貴重な文化財であり全文の解読解説と保存伝承の完壁を期し先人の努力に報いてもらいたい。

 《参考文献》「徳州新聞」昭和五七年四月五日。


第十六代の東京奄美会長

堀江元文二


 一九二五年、徳之島町三生れ。父勝善寿、母めしや四男。昭和十年頃改姓。警視庁警視長、会社役員、東京奄美会会長。中央大学、警察大学校卒。

 一九九八年十一月八日、東京奄美会は、五千人を動員、創立百周年記念の大会を有楽町の国際フォーラムで開催したが当日の総会で十六代会長に堀江元文二が選出された。二十一世紀スタートを飾 る重責でもある。

 一九四三年、東京多摩国民学校の助教をしていた元文二は、敗戦の年、十月十日、警視庁巡査となり新しい人生をスタートした。三三年、警察大学校を卒業して警部となり三宅島署長に赴任。

 その後は、戸塚署、丸の内署の署長、第二方面部長、第五方面部長、本庁の課長を歴任、七四年に警視正、七九年に警視長となり退官した。退官後は東京都副出納長を径て現在株式会社電脳の役員 として活躍している。

 少年課長時代、浅草少年補導所設立に努力、教師時代の経験を生かした名課長と言われた。内剛外柔型、温厚な人柄の持ち主、「敬天愛人」がモットー。囲碁四段、マージャン、ゴルフもOK。

 絵筆も堪能、警視庁芸術展では金賞組。後輩に頼まれると断り切れず関東伊仙町会長二回、関東徳州会長、東京奄美囲碁会長などもした。

 《参考文献》西田進二『警視庁奄美人物史』非売品。「南海日日新聞」(七七年十月三〇日)


大学経営の理事長第一号

北郷 薫


 一九二二年、松山市生れ、徳之島天城町瀬滝二世。父二郎、母エイ(伊予茂西家出身)、工学博士、東大名誉教授、工学院大学理事長。父は明治時代の英語教師で徳之島の先駆者。薫は父を越えた徳 之島関係では大学理事長や東大教授工学博士第一号でもある。

 北郷家のルーツは、都城島津家で、北郷家九代目が十九年間、徳之島で過した時から徳之島北郷家は始まった。一七〇〇年代末、何かの事件に連座して島に流罪となったものか、島津名門のように 藩の密命によるものか不明。同家の系図には徳之島在島の理由は記録されていない。

 一九三九年、県立松山中学を卒業、松山高校から、東大工学部機械工学科を四三年に卒業した。四九年工学院大学助教授、六三年教授、工学博士。六八〜八三年まで東大教授。

 八三年から十年間工学院大学長を勤め、九三年理事長に就任した。工学博士と言えば堅そうに聞こえるが若い学生といつも対話しているためか常に相手に暖かみを与えるタイプでもある。

 工学志向の人作りについて島の後輩と黒糖酒を味わいながら論じ、頼めば島の郷友会に参加講演もする島思いは人後に落ちない。

 《参考文献》『大奄美紳士録』奄美社。


奴隷解放運動での先駆者

  前安(姓なし)


 明治になっても奄美の島々には鹿児島藩の代官政治が続いていた。明治二年に代官所が在番所と名称が変わり役人の呼称が変わった以外何等の変化もなかった。しかし、一八六九年の夏、膝素立が 三〇歳になったら一五〇〇斤の身代黒糖引き換えに釈放せよと言う命令が出され大島では六〇〇人が解放された。

 薩摩のドル箱でもあった黒砂糖の産地奄美群島の農民は毎年の台風、旱魃、天然痘など天災や病気災害で割り当ての上納糖が不足すると地主から年三割以上の高利で借りて納めたが体を一五〇〇斤 の黒糖で身売りするのも多かった。

 江戸末期は、農民の三割が身売りし、これをヤンチュウと言った。借りた砂糖は高利が付き終生返済は不可能で自由の身になれなかった。ヤンチュウ同志の間に生まれたものは膝素立と言って、生 まれながら地主の所有物と決まっていた。

 前安と言う阿権平福憲(郷士、大地主)のヤンチュウがこれを聞き徳之島でも即時解放するよう地主に要求したが拒否され、全島のヤンチュウに呼び掛け竹に要求をぶら下げ全島一周のデモを行い 伊仙で地主の鉄砲で撃たれ解散したと言う記録がある。

 前安は地主により殺害されたのか、遺体はどこに埋められたのか、出身は、年齢や誰が情報を提供したのか、地主一族の籍口令はいつの時代解かれるのか。自由民権が叫ばれヤンチュウ解放運動が 大島でわざわざこのために下島した藩士により起こされるのは数年後の事である。前安がこの情報に飛び付いたのは、自分が生まれながら終身奴隷の膝素立であり、三〇歳を過ぎていたためであろう か。一五〇〇斤の身代糖をどう調達しようとしていたのか、無代解放を要求したのかなど今後の研究課題でもある。

 《参考文献》坂井友直『奄美郷土史選集』一巻、国書刊行会発行。


皇国史観否定の郷土史家

前田長英


 一九二二年、徳之島徳和瀬生れ。一九九一年没。郷土史家、小説家、奄美の郷土史書はその殆どが皇国史観にもとづいた誤った一方的なものである。それを抜き書きして一冊にまとめ自著として販 売する者もおり憤慨に耐えないと「道の島史論」に書き、島の歴史を現代史観の立場から再検証めざして書き続けた作家でもあった。

 前田の名を有名にしたのは一九四六年秋、天城村で開催された全島青年団弁論大会であった。徳和瀬青年団長の前田のは「頽廃の咽び」と題し登壇した。「なんだそれは」と聞いていた数百の島民を 騒然とさせたのは結びの言葉であった。「島は歴史的な日本固有の領土だ。民族的、文化的にも我々は日本人だ。我々の生きる道は日本復帰以外にない」と訴えて入選した。年寄は死ぬまでもう一度「ア ンバソーメン」が食べられる世をと涙をふいていた。これが復帰運動の歴史的な初声とされている。

 軍政府の圧迫が強くなり、前田を始め多くの青年団幹部が本土に脱出した。五二年二月号の『小説葦』に「奄美人島脱出記」を発表、奄美人の窮状を訴え復帰運動への協力を呼び掛けた。

 復帰後は製糖会社で働いたりして七七年から執筆活動に専心、徳之島郷土研究会会長として島の文化運動にも関与した。著書『潮鳴島』南潮新聞社、『徳之島の昔話』『黒糖悲歌の奄美』著作社。『黒 糖騒動記』海風社。『道の島史論』奄美文化財団地。

 《参考文献》『徳之島町誌』徳之島町。『徳之島郷土研究会会報』十七号。『島興し通信』(松田清編集)四九、五九、六五号。八五年に南海日日新聞社文化賞受賞。


闘牛場建設に私財を投入

前田村清


 一九〇八年、徳之島亀津生れ、一九八四年没。父前清、母ましかな二男。関西金属工業社長、大口寄付者、徳之島町名誉町民。

 尾母小学校卒業。一九二四年上阪、川崎車輌の溶接工として技術を磨く。三一年、溶接工業所の看板を出し、下請け企業として独立。「納期厳守」「安い良い製品」「一切ごまかさない」をモットーに 受注を増やし人材派遣もしたので仕事は順調に拡大した。

 時代は軍需産業ブームで仕事は拡大の一途、四一年に淀川溶接株式会社として工場も新設、社員も七〇人になった。五〇年に、関西金属工業と改称、五三年、静岡に第二工場増設、四五〇人となっ た。

 五一年、奄美大島日本復帰対策委員会全国本部常任理事、大阪本部副理事長として百万人署名運動を指揮した。日本復帰後は、亀津の神社再建、南区公民館、徳之島高校図書館建設と運動場整備、闘 牛場建設などに私財を寄進した。

 自ら闘牛数頭を所有、その中から横綱牛も出し闘牛畜産と観光に貢献した。裸一貫不屈の努力で出世故郷のために尽くしたその行為を顕彰するために有志が顕彰会を結成、徳之島高校門前に寿像を 建立、町も名誉町民に列した。

 《参考文献》『故郷の先人に学ぶ』第四集、同刊行会。『わが生涯を語る』前田村清顕彰委員会。村山家国『奄美復帰史』南海日日新聞社。「南日本新聞」(六三年十一月十日)「道之島通信」一一四号。


DNA融解細胞の研究家

前田好美


 いわき明星大学(明星学園経営)理工学部教授に細胞学研究の大家でもある農学博士前田好美がいる。一九三六年、前田好文の次男として本土で生まれる。戦争中父の出身地徳之島花徳に疎開し島 の中学校を卒業した。

 進学希望の高校が島に無く、米国の軍政下にあって本土への渡航が禁止されていたので鹿児島市に密航し名門の鶴丸高校に見事合格した。「中学の卒業証書も持たないのに良く受験を認めてくれたも のだ」と往時を回想している。

 鹿児島大学農芸化学科を卒業、味の素に入社するが退社して東京大学大学院に入り終了。農学博士の学位も取得、一九七〇年、同大学応用微生物研究所助手となり助教授に昇格した。農学博士の東 大助教授は徳之島出身者としては第一号の記録でもある。

 一九九一年、新設のいわき明星大学に招かれて理工学部教授に就任、細胞学を教えている。同大学は理事長も学長も東大卒であり先輩の招きに応じたものだろう。「西郷隆盛さんを愛する鹿児島の風 土には、現代社会に合わない無私、無欲の魅力ある人物が多い」と新聞は教授を紹介している。全国には、国、公、私立の大学が六〇四校、教授数は五万八二九三人居るという。最近は、悪徳弁護士 横行で弁護士人気は地に落ちた。その代わり教授の人気が高まっていると言う。金儲けに失敗し恥をさらしている教授もあるが先駆的な教授のモラル確立を好美博士に期待したい。

 《参考文献》「南日本新聞」九九年十月二八日。『大奄美紳士録』昭和六一年、奄美社刊。


ミニコミ紙発行の運動家

松 夫佐江


 一九二七年、徳之島阿権生れ。父真宗二、母よき長女、鹿児島高等家政女学校卒。戦後、教師の松玄栄と結婚、五四年死別。名瀬市立保育園保母、所長など三四年間勤める。現在「あおばと通信」編 集発行人。

 活発な市民運動家でもある。一九四六年、伊仙で開催された徳之島四ケ町村連合青年団の弁論大会に伊仙村代表として出場「新時代の青年の生き方」と題して熱弁、美人弁士の登場で二千人の聴衆 は拍手と指笛で応えた。

 日本婦人有権者同盟大島支部長、県立図書館奄美分館読書会会長、名瀬市美術協会副会長、田中一村会監査員、島口大会への出場、島ゆむた保存会、地名専門学校など数多くの団体に参加、頼まれ れると断り切れず役員も引き受ける。そのうち重点を見極めて集中したいとも言う。

 九三年に自分の出生地である阿権の出身者を対象に「あおばと通信」と言うミニコミ紙を季刊で発行した。島口、伝説、消息、先人紹介など郷土史の記録としても重宝がられている。多忙な中で絵 も書いている。県美術展、名瀬市美術展、県女流美術展にも出品、九八年に奄美文化センターで第二回個展を開催した。今までの入選作品二〇点中心に六〇点の作品を出品した。

 《参考文献》「南日本新聞」九三年七月七日、九八年十一月二六日。「南海日日新聞」九八年十一月二七日、「道之島通信」八号。『島興し通信』(松田清編集)三四号、六一号。


文部省唱歌などの作詞者

松永宮生(歌名直幹)


 一九〇五年、徳之島町三生まれ。一九八八年没。父松宮哉、母カナ長男。大正年間二字姓改姓。教育者、作詞家、私立富士学園園長。

 一九二一年に伊仙小学校卒、県立志布志中学、東京府立豊島師範を経て三五年日大卒業(三〇歳)。豊島師範を終えて東京の化成小学校教師となり三九年間教壇に立つ。

 『現代鹿児島の百人』という本に詳しい経歴と写真、人間の生き方についての談話がある。四三年、第四東京市立高等女学校、四五年、都立桜町高校、六六年、富士学園々長。

 文部省唱歌「若葉」「雨ふり」国定教科書「がけの下に」「わたし船」徳之島農高、伊仙小校歌なども作詞。神奈川県大山、秋田県田沢町、徳之島義名山などに詩碑もある。日本歌謡協会常任理事、新 日本詩人協会理事など歴任。

 「自分は晩学のためか徳川家康の遺訓が好きである。飛躍の野望はない、高嶺の花に心を奪われるような事もない、一段一段上る完成主義、凡夫として人より多く働くよう心掛ける。

 公私の混同をしない、生徒の答案を家に持ち込んだり、雑誌の校正を仕事中の休憩時間にするようなこともしない、自分の一生、どこを叩いてみても良質の西瓜のように澄んだ音が出るように生き たい」と語る。

 著書、詩集『波止場の月』『歌謡年鑑』他。

 《参考文献》『現代鹿児島の百人』育英出版社。『徳之島郷土研究会会報』第二〇号。


教授出身の弁護士第一号

松原正晃


 一九一六年亀津生れ、一九九三年東京没。松原法律特許事務所長、弁護士、弁理士、学校法人豊川学園理事、関東徳之島町会長、関東徳洲会長、東京奄美会副会長歴任。

 司法試験は、東大入学より難しく日本の試験制度の中で最難関とされている。しかし、大学の法学部教授を一定期間しておれば無試験で弁護士になれるという規定がある。この規定で弁護士になっ たのが松原であり徳之島人第一号と言われている。

 松原は中央大学大学院を卒業して一九四八年、同大学助手となり助教授に昇格、和洋女子大、神奈川大学講師なども歴任。一九六二年大学を退任、弁護士を開業、二年後に弁理士も資格取得した。日 本一の難関試験を突破して弁護士となったものはその後、金儲けに全力投球するのが多く弁護士の権威をいちぢるしく損ない弁護士会から除名されるものもある。奄美人も例外ではない。

 しかし、松原弁護士は弁護士開業後も、学術研究も休むことはなく数多くの著書を発行したことは他に例を見ない活動である。『各国都市制度の比較研究』の著書には、日本学術会議推薦による偕成 会学術奨励金の支給も受けた。

 その他、主な著書に『実証法学原理序説』『地域制度の研究』『会社法学指導書』『一般国法学ならびに国家理論の概要』などがある。「長い圧政に歪められた歴史を持つ島の再建復興は、国や県だけ に頼らず全国の奄美人が団結し物心両面の支援が必要である」との信念でその体制作りに努力した。

 《参考文献》重信健二郎『奄美の人々』関東編。一九七四年、全日興信所発行。


ソ連通の尼崎市議会議員

松田安輝


 一九一〇年、徳之島松原生れ。一九八七年没。尼崎市市議会議員六期。岡前小学校を終えて一九二五年に大阪に出て新聞配達をしながら夜学に通う。兵役除隊後、三四年に尼崎郵便局に入る。

 十七年間勤め、戦後全逓労組支部長に選ばれ五年間役員を勤め、組合推薦で市議会に出馬して当選。以来二四年間、連続当選して七五年に引退した。奄美の日本復帰運動では、奄美連合尼崎市支部 長として昼夜活躍、市議会では市代表監査委員、民生、文教、衛生など各常任委員会委員長を勤めた。他に市民活動として日ソ協会県連常任理事、ユネスコ協会支部、国際貿易促進会地方議員連盟役 員などで活躍した。

 一九二七年(十七歳)から日記を付け初め五十年以上も続き、尼崎市の戦後史資料として活用された。物事を始めたら最後まで投げ出すことはなく、机に張り付いて離れないので「かまぼこ」とい う揮名までついた。

 著書に『ソ連邦の都市行政』『ギリシャ古代史』『あひるの町から』がある。

 《参考文献》「道之島通信」十三号。重信健二郎『奄美の人々』関西編、全日興信所刊。


日産争議を指導の委員長

益田哲夫


 一九一四年、徳之島阿権生れ。一九六四年没。益友良長男。小学校四年の時、鹿児島市草牟田小学校に転校、一中―七高へ進み、三八年に東大を卒業。学資はアルバイトや郷里の一族の寄付に頼っ た。

 日産自動車に入社。四七年、労働組合を結成、翌年全日本自動車産業労組日産分会長になり米国式労働組合を目指し労働運動に専念した。全課長を組合に加入させ、人事については組合の承認を得 るという文書を会社と交わした。人事権を握る組合長は、社員からは日産天皇と尊敬され社長も労働組合推薦となった。

 五〇年代に入り、占領軍は左翼狩りを行い朝鮮動乱反対者を弾圧した。五三年労使決戦の天王山と呼ばれた百日間に及ぶ日産争議指導中の「益哲」は仲間六人と共に八月七日横浜工場で百人の警官 隊に襲われ逮捕されこの争議は幕となった。

 アメリカのジャーナリスト、デイビッド・バルバースタムのベストセラー『覇者の驕り』(NHK翻訳)は、日米自動車戦争の本だが、益哲を詳しく紹介している。組合役員時代「働かざるもの食う べからず」の論文を英文で書き米国の懸賞に応募入賞、仲間を驚かせるなど逸話が多い。東京青山霊園「解放運動無名戦士墓」に合葬。有名人墓地としてガイドされ献花が尽きない。

 《参考文献》『解放のいしずえ』新版一九七三年刊、鈴木松夫『戦後日本財界史』実業之日本社刊。「道之島通信」七五号、『近代日本社会運動史人物大事典』4、日外アソシエーツ刊。


流人塾を開き子孫を残す

丸野織之介


 一八〇五年生れ、一八七五年没、徳之島阿権流人。薩摩藩士で坊津出身の流人と見られているが確かな記録は存在しない。明治初期に阿権で塾を開き、郷校開設に尽力した。

 藩政末、面縄間切で漢文の読み書きが出来るのは丸野一人位と見られ、一八六三年、院道統(与人)の上国で藩への提出文書は丸野氏に見てもらったと言う記録が「道統日記」にある。

 丸野は、阿権のシキャバル地区に屋敷があり、ここで塾を開いていたのだろうか、まだ確認されていない。一八七〇年、天然痘が流行した時、部落民を自宅近くの洞窟に隔離し松葉をいぶし薮蚊を 退治したり、土地を解放いもを植えさせたりしている。

 五人の男子をもうけたが孫たちは「シキャバルに行けば米の飯が食べられる」と言っていた。流人にしてはかなり裕福な暮らしであったようだ。明治初期、阿権は多彩な人材を出しており、みんな 丸野塾出身と思われるが記録は丸野家の火災で灰になったのか何もない。一八九二年、妻寿かなが屋敷の敷地に建てた墓碑が残されている。

 《参考文献》『島興し通信』(松田清編集)四八号、阿権平年にある「宮萬行墓碑」「徳州新聞」八二年(昭和五七年四月十九日)吉村池豊遺稿。『鹿児島県姓氏家系大辞典』角川書店。


人命救助で紅綬褒章一号

南 元静


 一八五一年生れ。徳之島金見の農民、紅綬褒章受賞鹿児島県第一号。一八八四年(明治十七年)十月二十二目、明治政府は、南元静に紅綬褒章を授与した。この勲章は自己の危険を顧みず人命救助 にあたったものを表彰するもので元静がした金見崎での沈没船船員救助が認められたもの。

 記録には「鹿児島県大隅国大島郡徳之島金見村四三番戸、南元静(三四歳)は、明治十四年十二月三十一日、金見崎沖で高波を受けた米川勝衛乗組船が沈没しつつあるのを発見、自己の危険を顧み ず乗組員を救助したので勅定の紅綬褒章を賜り、その善行を表彰する」としてある。

 当時は大隅国大島郡となっていたようであり何時から大隅国がはずれたのか、また、海難救助の事例は全国で山ほどあったと思われるがどうして徳之島だけが表彰されたのかも興味深い。

 救助にあたった金見村では現在どのように語り継がれているのか、勲章は今どこにあるのか、救助されたのは鹿児島商人と言うが命の恩人との交流がその後どうなったかも地元郷土史研究で調べて 明らかにしてほしいものだ。

 《参考文献》『紅・緑・藍授章名鑑』自明治十五年至昭和二五年、総理府内閣賞勲局編、大蔵省印刷局発行。「道之島通信」三八号。


明治三年の上国日記残す

南義裕喜


 一八三四年、徳之島伊他生れ。一八七二年没。父幸宝、母赤茶兼の長男。一八七〇年(明治三年)二度目の上国で「上国日記」を残す。これは、鹿児島市での六か月間の生活、往復の海上交通につ いての克明な記録で一級の史料でもある。田地横目路伊仙掟役。首里の主一統。

 二度目の上国は、病気治療が表面的な理由で治療と言って温泉に二回入っただけであり、後は藩の役人巡りと島から来ている池島の島役人との交流が中心となっている。当時は病気治療を理由に財 力とコネを利用した猟官活動が花盛りであり義裕喜の行動もその一つとも見られる。

 召使の森門と従兄弟の義建と三人での旅であったが、十島灘で強風のため船が進まなくなり願掛けをした。無事旅が出来たら(1)井之川のトベンカナシと義名山に銀の鳥を作り寄進する。(2)義 名山には千度参りをするとしている。トベンカナシと義名山が当時島では最高の神だったようだ。

 鹿児島市の久田という町民に金を貸したがなかなか返してもらえず役人に頼み、そうめん七一五貫目を現物で受け取った話も書かれている。帰路、古仁屋で犬田布騒動の喜美武にも会っている。七 二年琉球目指して徳之島出港後行方不明となった。

 原文は、孫に当たる東京都目黒区の南卯吉郎が所蔵、同コピーを徳州新聞に送り解読を依頼、日記の存在が判明した。コピーは道之島通信社にも所蔵されている。

 《参考文献》「島興し通信」(奄美新聞社刊)六〇号。


東京奄美会の結成を指導

嶺山時善(ときよし)


 一八六三年生、一九三〇没。徳之島亀津生れ。明治時代の代議士。徳之島から二人目、鹿児島師範を出て大島、沖縄での教職から官界に入り沖縄税務署長となった。

 一九〇二年施行の第七回総選挙に立候補、政界に進出した。この選挙から有権者は、国税十円以上の納入者に選挙法が改正された(それまでは十五円)。大島郡の有権者は六三人増加し三七一人となっ た。三票差で落選、翌年の第八回総選挙では、一六五票で当選、続いて第九回総選挙でも一三一票で当選した。以後、三回出馬したが落選してあきらめた。

 嶺山代議士の所属は大同クラブ、鹿児島県出身の代議士はオール政友会の中で反政友会派として特異な存在であったが、性格的に温和で自ら行動を起すことはなかったとも記録されている。

 代議士時代に東京在住の奄美出身青年学生に「大島郡青年会」の結成を勧め指導したと龍野定一が証言『東京奄美会八十年史』『東京奄美会百年の歩み』に記録されている。

 交通網の整備では、五島を結ぶ定期航路の開設、鰹漁船建造で一隻、三百円の国家補助をとり一三〇隻の全盛時代を築いた。大島紬同業組合の結 成、黒糖の大阪への出荷、義務教育も本土並の六年制にした。

 《参考文献》『郷土人系』上、南日本新聞社。『議会制度七十年史・衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局。「徳之島新聞」(本社大阪市九五・四・一〇)『東京奄美会八十年史』東京奄美会発行。


明治期の農業振興功労者

嶺山嶺文


 一八四三年花徳生れ、没年不明。農業振興功労者。花徳の里久川に嶺山橋という橋があり「嶺山嶺文翁頒徳碑」という地区住民が農業振興で健闘した先人の功績を偲び建立した碑もある。嶺文は、一 九〇三年地租改正の時、部落周辺の山を共有林として残すように役人と交渉しこれを後世に残した。業績の最大のものは不毛の地であった里久を肥沃な水田地帯に変え花徳を全島一の米生産地にした ことであった。

 測量機器も無い時代に、一人でトンネルを掘り落差の大きかった当田川の水を引き大水田を作り上げ、水路を地区に解放した。大きな石で石垣を作る方法や農具の改良など今も嶺文の教えが生かさ れている。

 しかし、かつての美田は姿を変え砂糖きび畑となっている。米を作らない農民の未来はどうなるのか不安な気持ちで「頒徳碑」は眺めているのではと言う声もある。嶺文がどのようにして土木技術 を習得したのだろうか。詳しい記録の発掘を期待したい。

 《参考文献》『徳之島郷土研究会会報』十三号。


米軍政下連合教祖委員長

三原明夫(筆名、明大)


 一九二一年、徳之島西阿木名生れ。父徳安、母まこ長男、六人兄弟。戦後、奄美群島連合教職員組合長として日本復帰運動を指導。ルーツは首里の主一統。

 二三年に名瀬に移住、県立大島中学校を経て鹿児島師範専攻科卒業教師となる。四六年日本の行政から分離された奄美の教育について審議する群島教育審議会主査、五〇年に教職員組合長、琉球政 府人事委員、在沖縄奄美出身者公務員会会長。戦後奄美の教育方針の確立に貢献した。

 一九五一年に「教育白書」を作成、校舎も教科書もなく一カ月の月給では米二升を買うことしか出来ないと訴えた。その後、教職員組合は週五日制を実施、生活防衛の闘争を展開した。

 また、本土で六三制が施行されたことを知り奄美でも実施のため二人の青年教師を本土に密航させ、資料や教科書の見本を集めさせた。密航は本土のドック入りのため神戸に行く金十丸の船員に変 装させることにした。

 三原の小学校の級友福江恵彦(伊津部出身、九六年没)が船長をしていたので話はスムーズに進んだ。軍政府にばれると一網打尽覚悟で命懸けの行動であった。一年遅れで奄美でも六三制が実施さ れた。後日、教科書会社と正式に教科書輸入契約も交わした。

 復帰後、東京西阿木名会会長、奄美の自然を守る会会長として徳之島核燃料再処理工場建設反対運動も行った。六七年テレビ東京で、八一年NHKに出演、復帰運動を語った。「米軍占領下の奄美教 育秘話」「和のこころ」など冊子をプリント配布した。

 戦前、奄美では学校の先生は、郵便局長と並んで村のリーダーで、先生の発言は大きな影響力を持っており復帰運動でも大きな力となった。

 《参考文献》村山家国『奄美復帰史』南海日日新聞社、『島興し通信』松田清編、三八、五四、五五号。「道之島通信」一、九七、一〇六、一一一号。『東京奄美会八十年史』七五〇頁、東京奄美会。


英文学の博士徳之島一号

宮内文七


 一九〇八年、徳之島天城町阿布木名生れ。文学博士(英文学)大学教授。シェイクスピア研究の第一人者。一九二一年、阿布木名小学校から鹿児島一中へ、広島高等師範英文学科を卒業教師生活に 入った。徳之島から鹿児島一中に入学出来るのは秀才の中でも珍しい時代であった。

 三八年には熊本陸軍幼年学校でも教えたが教え子の中から大使や大学教授として活躍するのも出た。鹿児島大学で四〇年教授生活、七五年博士号取得。その後さらに十年、沖縄大、広島修道大大学 院、鹿児島女子大などの教授をした。

 徳之島出身者で英文学の博士は第一号でもある。九四年、東京で天城町会長の益満友忠らは、勲三等叙勲の祝賀会をかねて先人の努力を称えた。温厚な人柄は教え子から「おやじ」と慕われた。

 「徳之島には優秀な人材が多いが教育に恵まれていないためこれを十分伸ばす事が出来ない。経済的理由で進学出来ない学生に行政がなんらかの手を打って欲しい」と述べている。

 著書『シェイクスピア劇の詩学』近代文芸社。

 《参考文献》『大奄美紳士録』奄美社、「徳之島新聞」本社徳之島(八九年九月二八日)。


社会連動家の弁護士一号

美山幸熊


 一九二四年徳之島目手久生れ。父喜美政、母トヨ長男、兄弟三男二女。弁護士。面縄小学校、神戸市神港中学を経て、一九四五年に陸軍航空士官学校卒。

 満州で終戦、徳之島に引揚、目手久で米田正雄らと伊仙村小作人組合を四六年に結成、農民運動を展開する。その後母間小学校で教員を勤める。

 一九五〇年に妻子を残し単身上京、五三年法政大学二年に編入、働きながら法律の勉強に励み、五五年司法試験に合格、五八年弁護士開業。

 小学校時代の恩師、山田秀厚らの勧めで一時共産党に入党したが、その後離党した。戦後の社会運動家弁護士として徳之島第一号。「弁護士は野にあって権力をチェックせよ」という徳之島の大先輩 奥山八郎元日弁連会長の教えを忠実に守る努力もした。

 八一年に東京で「奄美の自然を守る会」が結成され、初代会長となった。東亜燃料工業の技手久島石油基地建設と徳之島の核燃料再処理工場建設に反対が活動目標。石油基地反対運動で発生した三 青年の裁判では無料で弁護活動をした。元関東伊仙会長。

 奄美大島は、薩摩商人に明治の初期、ほしいままの収奪を受けた歴史があり、これと闘い勝つため全島挙げて子弟に法律を学ばせた。郡単位で弁護士数は日本一となった。しかし、島では商売にな らないので一人の弁護士もおらず、本土の弁護士を頼むため大変な経済的負担となった時期があった。八二年、この窮状を救うために美山は名瀬に移住した。

 《参考文献》「道之島通信」八五〜九八号。「南海日日新聞」九八年四月十日、七月七日。重信健二郎『奄美の人々』関東編、全日興信所。


大阪で徳之島新聞を発行

村田助吉


 一九〇六年、徳之島母間生れ、一九九四年没。「ちゅっきゃり節の碑」建設委員会事務局長。徳之島新聞創刊者(本社大阪市)。本土在住の奄美人を読者対象とする郷土新聞の数多くは発行人一代限 りが多いが関西の徳之島出身者を対象にしている月刊の徳之島新聞は二代目が発行を続けている。

 郷土新聞の元祖は、一九二六年(大正十五年)鹿児島市で武山宮信が発行した月刊奄美大島である(武山は八一歳で没)。村田は「なんとか先人武山より一日でも長生きして新聞作りを続けたい」と 道之島通信の松田清主筆に手紙を書いている。

 新聞作りにかける情熱の根源は郷土の文化に対する愛着と誇りである。一九〇〇年頃、徳之島に流行してまだ歌い継がれている島唄「徳之島一切節」発祥の地として自分の故郷に七二年、碑を建立 した。

 この碑は母間港を一望出来る絶景の池本崎にあり、観光名所の一つにもなっており、徳之島一周道路に近く、車を降りてこの碑に向かい合うと島の文化を愛しその伝承に奮闘した先人の努力が偲ば れる。

 一九三八年、神戸で発行した「日本大観南島編」三九年発行「南潮」(B5判三〇頁)のコピーがある。村田が三二歳の時発行したもので、神戸市の現代史研究者にとって貴重な資料となっている。 活字の生命は不滅に近い、それを信じ報いられる事が少なく健康を害しても書き続けた執念の持ち主でもあった。

 《参考文献》「徳之島新聞」(九四年八月十日)「道之島通信」一三〇号。


蒙古自治政府徳王の顧問

盛島角房


 一八八六年、徳之島亀津生れ。一九四六年没。父角三、母おとかね三男。蒙古独立運動家、蒙古連合自治政府首席、徳王顧間。明治亀津人の代表的先駆者の一人。

 山本実彦著『蒙古』には、戦前の日本人で、蒙古独立運動に最初に参加した人、大陸の先駆者国宝的な存在として紹介されており、日本の蒙古政策立案には不可欠の人物でもあった。

 一九〇八年、延岡中学から東京高等師範に入学、国語、漢文を専攻。小学校の級友徳三宝の柔道熱にひかれて講道館に通い四段の免許を取ったがあきたらず、台湾に渡り公学校の教師をしながら人 生いかに生きるべかを考えた。

 四年後、北京に行き坂西利八郎中将の門下生となり、蒙古独立運動に命を捧げることにした。二六歳の時であった。ラマ寺に入りラマ僧となり蒙古語と慣習を学んだ。

 三三歳の時関東軍の特務機関員となり外蒙古の庫倫に入った。ここはロシヤ革命後、蒙古革命政府の首都となり日本人は追放された。

 一九三八年、蒙古の徳王は日本を訪問、天皇に拝謁した。随員で徳王の師として角房は一斉に新聞で紹介された。徳王に書かせた色紙を級友の奥山八郎弁護士に贈り旧交を暖めた。

 四二年、徳之島亀津小学校にらくだのぬいぐるみを贈り「どこにいてても島を忘れない」ようにと児童に話した。貴族院での講演や著書など角房旋風は一世を風廃した。

 《参考文献》内田勇四郎著『盛島角房翁伝』非売品(一九七五)『高原千里』(蒙古国付録)らくだ会刊(一九七三)『現代史料』8、六六一頁、みすず書房刊。「大阪毎日新聞」(一九二六年八月十六 日)『徳之島郷土研究会報』十六号。『島興し通信』(松田清編)四〇号。富岡光信著『蒙古の首領盛島角房』森久男訳『徳王自伝』岩波書店。


東京奄美会戦前の幹事長

森山徳十


 一八八一年、徳之島面縄生れ。一九四六年没。父實則、母うと三男、警視庁警視、弁護士、大島郡青年会副会長、常任幹事(東京奄美食前身)日大専門部、明大高等専攻科卒。東京奄美会三大恩人 の一人。

 徳之島出身警視庁警視、署長第一号、苦学の鬼でもある。明治末の一九一一年、熊本の税務署をやめて上京警視庁巡査となり、働きながら日大と明治大を卒業、二七年には警視に昇進。

 大島郡青年会の幹事長として、泉二新熊会長を補佐、三一年には会長から表彰状を送られた。警視庁時代のエピソードに昭和天皇京都行幸護衛騎馬隊十七人に選ばれ、御所、東京駅間を一分違わず 二五分で到着した騎馬技術。浅草署長退任の時、住民が留任の署名運動を起こし直訴した話しなどがある。

 一九二六年には、伊仙村出身者を集め「徳南同胞会」を結成会長に就任した(副会長は阿檜出身の中仲登美)。五六歳で弁護士試験に合格、苦学の鬼と言われた。長兄五郎は独学で校長から村長にま でなった努力家。

 郷土の青年に対する希望と題する提言がある。奄美人の短所として「自力心の欠如」「報恩の心が薄い」「師弟の情義が乏しい」「扇動されやすい」などをあげている。

 《参考文献》「道之島通信」一二九号、西田進二『警視庁奄美人物史』大岡亮義『愛郷百話』非売品、全国新聞通報社。『東京奄美会八十年吏』東京奄美会。


クリスチャン弁護士一号

安田重雄


 一八九四年、徳之島亀津生れ。一九六七年没。父善良、母チャの長男。「右手に聖書、左手に六法全書」を持つクリスチャン弁護士。幼い頃両親に別れ祖父母に育てられた。

 母が吉満義忠信と再婚したので著名な国際的神学者吉満義彦は義弟となる。亀津の小学校から鹿児島二中、熊本五高を経て一九二二年、東大法科卒業。

 朝鮮各地で裁判官を歴任、クリスチャン裁判官として民衆からも支持を受け尊敬された。終戦当時、北朝鮮海州地方法務院長であったため北朝鮮当局に捕らえられ取り調べを受けたがクリスチャン と分かり三か月で釈放された。

 内地に引揚げ後、千葉市郊外のクリスチャン開拓地に入植した。四六年、極東軍事裁判が始まり、日本の戦争指導者A級二八人の裁判が始まり、奥山八郎弁護士の招きで、永野修身、島田繁太郎両 海軍大将の日本人弁護団に加わり弁護活動をした。

 戦後弁護士活動のスタートでもあった。裁判は延べ四一六回、二年半に及び経費は二八億円に達した。永野は病死、島田は終身刑(講和後釈放)東条英機ら七人が絞首刑となった。

 弁護士活動では弁護料が払えない友人の未亡人の裁判で九州に行き無料で弁護するなどの美談が多い。七四年、東京で「やまと会」を結成し後輩の指導にあたる。祖先は琉球王国時代、琉球王が徳 之島押役として派遣して来た喜屋武親方に始まる。与人役や郷士篤家などがその子孫である旧姓は武。

 《参考文献》『やまと会会報』安田重雄追悼特集号(一九六四年一月)安田正暉『私の人生記録』『先祖と故郷』。


徳之島で学校経営第一号

山 徳峯


 一八四四年、徳之島亀津生れ、一八九九年没。父徳善、長男。亀津郷校経営者、戸長、村長、県会議員、安住寺住職から、四書、五経、十八史略を学び、書や絵画にも秀で「南峨」と号した。

 一八七二年(明治五年)一三六年間、信仰の中心としてまた教育の場でもあった徳之島ただひとつの禅寺安住寺が、廃仏令で廃寺となった。

 亀津の有志、山徳義、柳義昇、安田佐和応、竜禎道、指宿文都志、津留義祐らは、協議して私財を出し合い寺の建物と敷地を買収し、郷校を造り全島から生徒を集めてこの聖地を後世に残すことに した。

 廃仏令は一年で撤回されたが寺は復活せず新しい神社が押しつけられた。しかし、安住寺に出来た学校には全島から五十数人が入学大好評を博した。この学校運営に当たったのが、徳義の息子徳峯 であった。師員には、旭福泉と福沢福祐の二人が就任した。

 福峯が安住寺で開いた学校は、従来流人中心に開かれていた私塾中心の全島での教育を一変させた。各村で敷地と校舎を建設し、鹿児島から年二石の手当てで教師を雇ってくる村も出た。亀津には その後、教員養成所なども建設された。日本一の学士村や亀津断髪の原点はこの郷校で築かれて行った。

 徳峯は、その後、亀津外六ケ村の戸長となり、一八八八年には大瀬川に堤防を築いて氾濫を防止した。九四年に県会議員に当選、一八九九年六月に島尻村長就任途中豪雨のため肺炎となり没した。徳 之島町に有志が建立した顕彰碑がある。

 《参考文献》『鹿児島県姓氏家系大辞典』角川書店。『徳之島町誌』徳之島町刊。


高級飴味覚糖を開発経営

山田酉吉


 一九一六年、徳之島伊仙生れ、一九八七年没。高級飴の味覚糖(株)創業者。徳之島出身者が本土で頭角を現すために選ぶ職業で一番多いのは教員、巡査であった。資金がなくても一応の生活が可 能であり、後は自分の努力で昇進が出来だからだろう。業界で十指に入る企業経営者はほとんどいない。山田はそれを実現した先駆者でもある。

 大阪に本社のある味覚糖は、資本金三億円、グループの九六年商二八〇億円、社員数三五〇人と言う大会社である。これを育てたのが酉吉であり、役人と教員志向の強い奄美では珍しい。

 一九三六年、伊仙小学校高等科を卒業して大阪に出て菓子問屋の店員となり、ここで飴の製造販売について学び、四九年、島にあった父米富所有の田地を処分、資金を調達して飴、菓子などを製造 する味覚糖(株)を設立した。

 島では大学の学資や政治道楽で父祖伝来の土地を処分するのはあったが会社設立のための処分は珍しかった。ことが成功しなければ再び故郷の土を踏むことは出来ず命懸けの行動でもあった。

 「高級飴、七色の飴味覚糖」はテレビ、ラジオの電波に乗って急速に伸びた。製造設備の機械化、コンピュータの導入など先手のマネジメントに支えられ業績も拡大した。

 八三年に卸販売の「ユーハ味覚糖」を設立、事業所も三〇地区に伸ばした。現在経営は二代目になっている。

 《参考文献》『伊仙小学校創立百周年記念誌』伊仙小学校。「週刊とくのしま」(八二年二月六日)「鹿南太陽新聞」(八七年四月十一日)


明治時代徳之島史を記録

吉満義忠信


 一八六〇年、徳之島亀津生れ。一九一八年没。父嘉道、母たるか年の次男。一八八六年(明治十九年)古仁屋警察署長代理を振り出しに、東方、鎮西、亀津、天城、島尻の各村で戸長、村長、県会 議員など歴任、明治二十年代の行政リーダーとして活躍した。

 一方、明治二八年(一八九五年)に『徳之島事情』をまとめた。この記録には、一六〇九年、薩摩藩侵攻以来明治二八年まで主要な出来事が掲載されており、明治時代の農地の反収、貧富階級で米 千石以上、金万円以上貯蓄し富豪と称する者として林為清、平福世喜をあげ、それに次ぐ者として八人の名が出て居る。

 二五点の色付き絵図は、すでに失われ消えた民俗を伝えており、地図、衣食住、民度、物産など統計数字もあり、戸長でなければ書けない内容が多く島の歴史や民俗研究には欠くことの出来ない史 料である。公刊されなかったために幻の資料となっていた。

 この資料の存在を知った小出満二教授(鹿児島高等農林二代目校長)は、卒業生堀口一蔵を通じて、これを借り出し謄写させた。一九一七年四月のことである。これが後世に残された。

 名瀬市は『名瀬市史資料』として、六四年に初めて活字で刊行した。徳之島の先人を偲ぶ会(高岡善成代表、道之島通信社内)が九七年に復刻、島の公共機関に進呈した。

 一九一四年四月から十八年六月まで島尻村の村長をしていたため長男の義彦(上智大教授、国際的神学者)は、伊仙小学校を卒業した。

 《参考文献》『鹿児島県姓氏家系大辞典』角川書店。他に、賜杯、表彰状などコピーがある。墓は埼玉県入間市メモリアルパーク三―二―二二八にある。管理人は孫の青山秀雄(東村山市在)。


百年に一人の秀才神学者

吉満義彦


 一九〇四年、徳之島亀津生れ、一九四五年没。父義忠信、長男。上智大教授、カソリック神学者者。四二歳で他界した義彦の全集五巻が一九八三年に講談社から出版されたがその推薦文に森有正は 「彼に後十年、せめて五年の生命を与えたならば、戦後日本の哲学、思想、宗教は全く変わった発展を遂げたであろう。吉満の文章は次元の高い現代への警世と未来への予言ともなっている」と書いて いる。

 鹿児島一中時代、百年に一人出るか出ないかの秀才と言われ、一高―東大へとストレートに進学した。父は明治大正初期の役人であり『徳之島事情』を明治にまとめた知識人でもあった。父が島尻 村長時代、伊仙で生活したので伊仙小学校を卒業した。級友に、古勝貞芳、重嘉玖郷などがいた。

 東大時代、田中耕太郎のカソリック研究会に参加、岩下壮一神父の指導でプロテスタントからカソリックに改宗した。上智大教授時代に哲学専攻の遠藤周作に「君は文学の方が向いているのでは」と 勧めた。作家遠藤はいつも感謝していたと言う。

 東京府中市にあるカソリック墓地には、遠藤も、田中も、義満も静かに眠っているが花の切れることは無いようだ。

 著書『吉満義彦全集』全五巻、講談社刊。

 《参考文献》『世紀』七二号「吉満義彦教授を偲ぶ特集」中央出版社(一九五五)。『島興し通信』(松田清編)二四号。


徳之島PRの四六代横綱

米川文敏


 一九二九年、徳之島沖之川二世。一九八八年没。父富忠、母マツ長男、五人兄弟、第四六代横綱。父の仕事上兵庫県で生まれる。五・三キロの赤ん坊で、小学校に入っても級友より十キロも重く百 貫デブといじめられた。生まれながらにして関取を保証された肉体の持ち主であった。

 一九四五年、空襲をさけて徳之島に疎開して来た。四六年、亀徳の浜で全島青年の相撲大会があった。米川青年も出場したが巨体とすぐ転ぶのでたちまち有名になった。「三升のめしを食べるそうだ、 親は気の毒だね」と言う者もいた。

 四八年、親戚の大沢徳城に連れられ神戸へ密航、明大OBの水野幸一の紹介で高砂部屋に入門した。あんなおとなしい男が果たしてものになるか案ずる声もあった。五〇年秋、十両優勝、五六年、関 脇優勝とスピード出世で周辺を驚かせた。

 密航を隠すため奄美が日本復帰するまで兵庫県出身と土俵で紹介されていたが復帰後「鹿児島県奄美大島出身」との呼び出しの声が変わった。徳之島の名称も横綱を生んだ島としてPRされ、奄美 人のシンボル的存在ともなり日本復帰運動や復興運動を勇気づけた。

 一九五九年、四六代横綱、六二年一月、最終場所まで五回優勝した。うち四回が大阪場所だったので大阪太郎といわれた。笠利町筋田の畠信行は、五九年、個人で「横綱朝汐昇進記念碑」を名瀬市 拝山に建立、徳之島町は八〇年、名誉町民として奄美人初の横綱を顕彰した。

 《参考文献》『島興し通信』(松田清編)二九号。『郷土の先人に学ぶ』四集。伝承谷英丸著『戦後派力士五人衆』べースボールマガジン社刊。


昭和十年節婦孝子で表彰

米倉アサノ


 一八八五年生れ、一九三五年没。昭和十年二月十一日、鹿児島県は県下で十五人の節婦孝子を知事が表彰、木杯と賞状を贈った。阿権の主婦、アサノ女史がこれに選ばれた。

 アサノは、香川県三豊郡勝間村で石井卯吉の二女で、裁縫、手芸教員養成所と日赤香川県支部看護婦養成所を卒業、産婆学の実地研修もした職業婦人を目指す新女性であった。日露戦争の戦傷者の 看護のため陸軍善通寺病院に動員され表彰を受けた。この病院に獣医として日露戦争に参加して復員した米倉信哉が入院しており、二二歳の時に二人は結婚した。

 大正二年、米倉が病気となり二人は阿権に引き揚げた。病気の夫の看病、年老いた両親、子供の世話などアサノの苦難の生活がスタートした。米倉家は、藩政時代に田地横目役と言う上級島役人を 勤める家系であったが明治以降は衰退していた。四国から嫁入り用として持参した二〇本の帯を利用、裁縫教室、着付け教室など無料で開いた。ハブという毒へびのすむ島での生活は極度に疲れたが 悲鳴をあげることはなかった。

 むずかしい島ぐちも三年でマスター、お産があるとタイマツをつけ馬に乗って往診した。島の人達はヤマトンチュー(本土の人)がよくもやるものだと尊敬と感謝の気持ちでその生き方を模範にし た。

 知事表彰は全国紙にも大きく報じられたが長い間の激労のためか六カ月後五十歳の生涯を閉じた。明治女が残した表彰状や日露戦役参加の記念品が阿権に残されている。

 《参考文献》坂井友直『奄美郷土史選集』第二巻。


戦後島で小作人組合結成

米田正雄


 一九二一年、徳之島目手久生れ、社会運動家。一九三二年上京、同郷の詩人泉芳郎の紹介で著名なアナキスト石川三四郎に私淑した。戦争中は徳之島で農業。四四年、徳之島飛行場建設に動員され、 軍部から虫けら扱いされていた農民の要求をまとめ貫徹する。

 当時、泉は島で校長先生、軍部の依頼で米田の説得に当たったがどうしても米田は応ぜず頑張った。軍部に対して島民の立場で発言出来るのは徳之島には一人も居らず尊敬を受けた。

 一九四六年春、戦争が終わっても島にはなにも良い事はなかった。天然痘が流行した。働き手は戻って来たが空襲で農作業は出来ず小作料はたまったままでであった。地主は無慈悲に土地の取り上 げを強行した。

 米田は、村の青年団に呼び掛け小作人組合を結成、土地取り上げに反対し、小作料の引き下げと本土並みの農地改革の要求を掲げ、島の民主化を訴え各部落で集会を開き地主と団交を行った。

 堂々たる自作農(土地持ち)の米田がどうして小作人組合を作るのかと地主たちは首をかしげた。村会議員にも当選したが米軍政の壁は厚く圧迫は激しくなり本土に渡った。

 三鷹市で失業者の自由労働組合を結成委員長となった。一九五二年に三鷹自由労働組合員と共にメーデーに参加、皇居前広場に入ったとして逮捕された。血のメーデーと言われた事件であった。裁 判は長い年月に及んだが全員無罪となった。

 《参考文献》『近代日本社会運動史人物大辞典』4、日外アソシエーツ発行。「道之島通信」八六号、一一八号『島興し通信』(松田清編集)三二号。


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